勉強ができる秀才なの?と問われると自信はないですよ。ガリガリ勉強はしてましたが。
当時は延々と本を読んでましたね。
英語文献を延々と読み、英語の研究書を読み、片手間で英語圏以外の翻訳文学を読んだり、とにかく、読み散らかしてましたね。
原語の研究書については、当時は海外の古書店から購入してました。安値になるのを待って。

勉強するにあたってはその版が必須という本があったりします。なのに重版はかかっておらず。古書で高いのが値崩れするのを待つんですよ。学校の図書館にもあるし、まぁまぁって思いながら。
いま考えるとなんだろうあの年間の書籍代はって思いますが。
以前に、関西のとある大学の図書館がダメになるという記事を読んで、世も末だと思ったことがあります。とある大学の教務のかたによると、論文が何本でもかける、分野もある程度の幅が揃っているという言及を読んで。確かにどこの大学も所蔵している本は飽和状態なんだけど。
研究者が本を漁れる状況にならないんだろうか?と。
欲しい人が本を得るような状況にすればいいのに、と。
最終的にどんな結末になったのかは、もう嫌だなって思って、調べていません。

Aさんにとっては無価値なものが、Bさんにとっては宝の宝庫ということはあり得るわけで。
たまに、どうなったんだろうなと思い出すことはあるんですが。
最悪の結果だったら嫌だなと思って、調べることはしていません。
ガリガリと勉強をしていたときに、どうしても必要な文献があったんですが、所蔵が書庫だったんですよ。
「書庫=希少だから、選ばれし人にしか入られへんで。場合によっては閲覧だけな」というシステムです。
そして、いまめっちゃ必要っていう時があって。
なのに、ないんですよ。
え?って驚いたんですが。
本当に希少本なので、希少本ですって発見のされ方をして、図書館の入り口で展示されていたんです。

定期的に閲覧しているのは、わたしだけやけど、だからって飾ることないやんかっ。
必要としているひとがここにいるのに。
なぜ飾るん?展示期間も設定されてないやん?いま調べたいのにーって思いながら。
図書館の係りのひとに言い出せず、かなり困ったことはあります。
学生に人権はないですからね。
しょうがありませんよ。時代が変わっても学生に人権はないですよね?学生だったのでよく理解できますよ。
ある程度勉学を重ねていっても、学生は、先生にとっては数でカウントされる業績数になったり、大学にとっては単なる搾取対象にもなります。隷奴ですよ。わたしの場合は、もう必要以上の勉強をしているので。機会があって大学に勉強に行ったとしても、専門分野の先生に鉈を振って、震えさせるだけになります。学生の時でもあったので。もういいです。勉強したいときには勝手に勉強します。高邁な先生方に喧嘩売る気はないんですよ。ないんですよ。人文科学に関しては興味がもはやないんです。事前の準備をしていって、なんやねん、このレベルは?とか嫌ですし。時間の無駄とか嫌でしょ?わたしは嫌なんです。レベルの低い先生っていつの時代でもいて、そんな先生に当たって面倒くさい状況なんて学部のときから経験がありますから。