興味のままに。

本を読んでいます。つくづく便利になったなって思っていますよ。

日本の研究者の呼称に準拠すると、第三代シャフツベリ伯爵です。あんなおじいさまの血筋から、まともなひとが育ってよかったってみなさんも思うんでしょうが。わたしもそう思います。まぁ、おじいさまはイングランドの秩序回復の一助を担った人には間違いはないんですが。

もちろん、論文も読んでいます。論文を読みながら、マルクスって誰?誰?マルクスって?となったり。読み進めるとマルクス・アウレリウスで、あ、なんだ、哲学の分野だと、マルクス・アウレリウスはマルクスって書くんだ、斬新って思ったり。楽しいですよ。

手続きはとても丁寧なんです。本当に勉強になります。

わたしは割と鉈を手に持って走る感じで読むので(きちんと読みますが、査読論文だと読むスピードは結構速いんです)。

多分、お気づきだとは思うんですが、第三代シャフツベリ伯爵は後のチャールズ二世の数学の家庭教師があんまり好きなひとではないような気がしますし。嫌いなんですよ。研究書にも書いてありますよ。ホッブスですけど。

Common senseの語義は詳しくないのですが、マルクス・アウレリウスに言及してらっしゃるので。ストア派ですよね。古典ギリシャ語の読解や当時のラテン語の共通理解のありかたなんて、わたしには皆目見当がつきません。研究者のみなさん、頑張ってください。わたしの専門は文学です。

すみません。外野のヤジです。

反省しています。だって分野が異なるからです。だから、勉強してるんですよ。

ラテン語に関しては、わたしは逃げましたから。わたしの先生が(複数形)学生の折に履修をなさっておられたそうですが、4行しか進まないのっておっしゃっていて、一回の講義で4行?と恐れおののき、先生で4行?わたしなんかものすごく頭悪いから、格変化についていかれへん、4行分の予習なんて絶対に無理やーって逃げました。そんなやつなんですよ。ぬるいんです。自然法を研究する専門家はやはりラテン語や古典ギリシャ語を学ばないといけないのでしょうか?ラテン語もできひんのんかって怒られるんでしょうか?古典ギリシャ語ができひんで、ストア派への言及?おとといきやがれって、突き飛ばされるのでしょうか?頑張ってください(専門の先生は、当時、古典ギリシャ語を学生に教えることを諦めてらっしゃる風情でした。当時の私たち学生のせいですね、きっと)。

17世紀の文学研究だけでなく他分野からの研究もあります。少しですが文献をもっています。”The Publick”という記述をつかうテクストが当時少なくなかったみたいですよね。第3代シャフツベリ伯爵の文献でも見かけられます。イングランドは一度、共和制になっていますが、これは君主制に対するという意味合いが強いんだと思います。言及しているのは、第三代シャフツベリ伯爵についての論文です。やはり、公共という意味合いが強いんだと思うんです。公共善のようなもので。シャフツベリが用いた言葉がラテン語であったとしても、言葉として運用していくときに、つまり、そこに意味合いを含める時には、イングランドの当時の現実を反映させているはずだと思います。当時のイングランドの現実を言葉の意味に含意しているんだと思います。

ストア派の知見が広く反映されているのが欧州の知になるのだと思いますし。ラテン語のcommonにおそらく公共の意味があるんじゃないのかなと思います。ラテン語に詳しいわけではないのですが。文学研究から考えると、言葉というものは公共に対する問いかけにもなるはずなので、当時のジャーナリズムもそうだと思いますが。公民として何をするのか、どう徳を考えるのか、徳の実践をどう多様化するのかというのはいろんな分野で追及をされたんだと思うんですよ。17世紀という時代には。また、「自然的な」という言及があるときには、もう神学だと思います。17世紀の神学って、なんであんなに別々なんだとか、分派だらけなんだとか悩みますよね。わたしなんて、非国教会の長老派の全体像なんて、皆目見当もつきませんけど。国ごとにあるでしょ?非国教会って括りますけど。果たして括れるものなんでしょうか?あくまで国教会という建前があって、非国教徒となるはずですし。制度設計から非国教会のひとだけつまはじきにされたりもしますし(単なる勉強不足なのかもしれないんですが。それでも、わたしの専門は文学なんですよ。ポンコツですみません)。

実は、第3代シャフツベリ伯爵は実に校正を頑張るそうなんです。

だから、割と読み易いんです。最初に公刊されたのは実は、Benjamin Whichcoteというひとの説教集です。Whichcoteはケンブリッジ・プラトン学派のひとになります。著作物は殆ど死後出版になっています。

第3代シャフツベリは序文を寄せています。

意訳しますね。思いっきり。理解のためです。

人口に膾炙された数多の出版物のなかで、思い浮かべるものに、「説教集」というものがあるやもしれない。「説教集」の類は、他の多くの著作物同様に、待望のという出版物ではまったくない。将来においても、待望の出版物というものにはなるまい。その豊かで、無尽蔵の知識の蓄えにも関わらず、である。知識の蓄えというものは、イングランドの学識者や、正統派の神学者たちがすでにわたしたちに与えているものでもあるが、日々の新鮮な追加分というものがあるものだ。実に価値のあるものから、有用なものまで。この種の知識の蓄えに関しては、私たちは中断の憂き目にあうこともない。また、このようなありがたいものがわたしたちを落胆させることもない。未来においてでさえ、その安全性は確約されているので、疲れを知らない現在の神学者の熱情からだけではなく(彼らについてはわたしたちはいつでも価値ある繁栄を望んでいるのであるが)、正しく評価されるべき神学者からの確約も必要である。無論、出版もされている。かくも敬虔な説諭については。そもそも、そのような説教集は日々世に問われている。現状、世間に対して押し迫るがごとくである。説教集をものした著者の際立った慎み深さ、彼らの控えめな考え方、心から親愛の情を抱かれることを予め諦める姿勢をして、彼らを名声の高みに導くことや世間での立身出世に繋がらないにも関わらず。

Select sermons of Dr. Whichcot 

初見でさっさと訳しているので、多少の間違いはあります。とりあえず読み進めています。

結構、含みをもたせる労を惜しまない、明るいいいお人柄だなっていうのが言葉の選び方からよくわかります。

もともとこういう気質のひとなんだろうなって。

文人という気質が伝わってきますよ。

文体には触れていこうと思っています。ブレイクはいれますけどね。体力の問題です。がしがしと読みすすめられる体力が現状ないんですよ。

悲しいことですが。

それにしても文体って変化するものですよね。研究者が当座の翻訳をしながら読み進めるというのは有益なのかもしれませんよね。

わたしは文学研究なので諾々と読みますが。

本当に註が欲しいんですよね。絶対に意味を2重、3重に重ねて述べているというのが語感から立ちのぼっているような印象もあるんですよ。細かい註がほしいんですが。ないんですよ。オープンデータですからね、しょうがないですよね。え?音楽ですか?R&Bまでたどり着いて、そこからベースという楽器にも向かわないといけないのと、同時進行でロカビリーなので、本当にね、むつかしいんですよ。休み休みやりたいじゃないですか。すみません、逃避させてください。いまのわたしには逃避が必要なんです。R&Bからロカビリーなんですが、壁だらけです。

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