Barbie(2023)を観ました。Footballの試合をみようとしたら、おすすめですよとお知らせがあり。
お知らせのほうを選びました。
こんなに深い映画だとは知りませんでした。
主人公のBarbieはさまざまな種類のBarbieのなかでも、比較的平均的なごく普通のBaribieの人形になるそうです。
普通にBarbie landで毎日を過ごしているある日の夜のパーティーで、死のアイディアがふっとよぎるんですよね。
すると、人形としての日々が取り上げられていき、人形としては、足の形状がつま先立ちになって成立しているはずのBarbie人形の足なのに、地面にぺったり足がくっついてしまうんです。
まるで、人間みたいに。
故障なんじゃないかと修理係のBarbieのもとを訪れると、Barbieは人形で遊ぶ女の子とセットだから、きっと女の子の心の方が故障しているのかもということで、現実世界でBarbieを所有している女の子のこころをどうにかした方がいいという修理係のBarbieの判断を受けて、現実世界に出かけるんです。
とにかくライアン・ゴズリングさんが凄いです。ゴズリングさんがKenを演じてなかったら、この映画は成立をしていません。わたし個人は、ゴズリングさんはBlue Valentine(2010)という映画で知っています。繊細な人を演じるのが上手な俳優さんなのに、真逆のKenを演じることになり、その真逆の人形であるKenは深い部分で実は繊細という。

マーゴット・ロビーさんはいくつかの出演なさっている映画を観たことがあります。今作ではプロデューサーも兼任だそうです。お人形を演じるってどんな感じなんだろうって思うんですが。ところどころで、ひとよりもお人形としてのBarbieとしての説得力がありました。
感情がフラットなんですよ、割と。人形だからかなって思うんですが。それでも、映画のなかで人間に近くみえるBarbieになるときがあるんです。よくみているとメイクが完璧だったBarbieなのに、お化粧していないんです、そういうとき。ドールズハウスにいるんですけど。え?って驚きますよ。表情にうつる感情が複雑になっていくんです。
Baribieなのに。ひとになってきているって思いました。
KenはBarbieの隣りにいないと価値がでないお人形なんですよね。
2017年のGQ JapanにKenに関する記事が掲載されています。
引用をします。
ケン人形の存在感の薄さ
この記事の取材のために、カリフォルニア州エル・セグンドにあるマテル社のデザインセンターをわたしは訪ねた。セキュリティの厳重な社屋でまず出迎えてくれたのは、1階フロアから吹き抜けの2階天井までの壁面を占める創業者ハンドラー夫妻の巨大な写真だった。
バービー人形誕生のヒントになったのは、夫妻の長女バーバラが紙製のお人形で遊ぶようすだった。当時の児童向けのお人形といえば子どもを模したものばかりだったが、バーバラがお人形たちに大人の役割を演じさせていることに夫妻は気づいた。この需給ギャップが商機につながるはずだと見抜いた彼らは、1956年に出かけたヨーロッパ旅行で、ドイツ製のリリ人形に出会う。リリは、さまざまな50年代ファッションに身を包んでいた。リリ人形は大人向け製品として売られていたが、これぞまさしく娘のバーバラが求めていたものだと感じた夫妻は数体を買い求め、それがバービー人形の原型となる。
バービーとケンというカップルの名前は、夫妻の子どものバーバラとケネスにちなんだものだ。女の子が憧れる大人の女性に最新ファッションを着せ替えて遊べるバービー人形は、夫妻の狙い通りにニーズをつかんで大ヒットとなり、続けてそのボーイフレンド役のケン人形が売り出された。
ところで、ケン人形につきまとう課題はといえば、あくまでもバービー人形を主役とする世界のなかでの脇役としての存在感の薄さだ。バービー人形が好きな男の子たちも、ケン人形には見向きもしてくれないのが悩みの種だという。
現に、ケン人形の売り上げはバービー人形の7分の1。女の子がバービー人形のコレクションを7体にまで増やしたところで、ようやく最初のケン人形を買い求めてくれる計算になるのだ。マテル社はこの比率をせめて7対2に高めたいと考えている。今回のラインナップ追加も、それを受けてのものなのだ。
Kenの売り上げがBarbieの7分の1というのが映画のなかのkenを取り巻く現実になるわけです。売り上げの描写も出てきますし。
いろんなKenが出てきますけど。共通している現実になりますし、人形が”the raison d’etre”を考えだすと、映画の構造の中でとなると、覇権争いになってしまうのかな?って思いました。
KenはKenなりに抑圧されているからです。
最初に典型的なBarbieが死を思うことで、”the raison d’etre”を見出さなくていいのに見出してしまうのとは対照的に、覇権争いから生まれたKen同士の争いの中で、最終的には、ダンスの場面でKenなりの”the raison d’etre”を修復していくんです。ギターの音がかなり気になってあのギターはなんだろう?ってなりましたが。
すでに傷が深いので修復していく方法しか、kenの”the raison d’etre”の在り方がないみたいな感じでした。
家父長制度って、かなり歴史の長いものですから。

世界観が転倒してしまったときに、Kenのような辛さを抱えるのかもしれません。
人形なのでそこまで複雑な感情表現ができないところが悲しいですよね。
そして、女の子の遊びとして人形遊びの歴史も長いんだと思います。流行らなくなってきている遊びにもなるそうですが。
文化人類学だと扱う民族ってかなり多岐にわたるので母系の民族ももしかするといるのかもしれませんし。わたしはよくわかりませんが。
家父長制度が善か悪かという一義的な議論はむつかしいと思っています。
日本の場合は戦前戦後までの家父長制度は現在では残っていませんし。
家父長制度が家父長制度として残っていたら、ヤングケアラーの問題は浮上しませんし。
まともな国だったら、まともな政府だったら、重度の病気を抱えているひとや高齢者の暮らしや障碍者やちいさな子供を取り囲む暮らしについては責任をもって施策を打ち出すはずですし。全部適当になっているのは、先進国では日本だけです。
個人的には医療費の無償化を目指した方(イングランド並みの皆保険制度です)が、医療の現場のひっ迫も防ぐことができると思うんですが。
どんなに重度の病気を抱えているひとでも、高齢者でも、障碍者でも、ちいさな子供を取り囲む暮らし自体すらも、税金を納めてくれる対象としてしかみていないのが、日本の財務省ですから。
一生働き続けてくださいというのが、政府の施策なんだと思うんです。
未来につけを廻さないようにしましょうというのなら、消費税くらい減税して消費喚起したらいいじゃないって思うんですけど。日本の消費税は法整備をし直さないくらい煩雑な財源になっていますし。欧州で日本みたいな消費税は皆無だと思います。
どう考えても無理だと思うんですが。
また、家族をバランスよく構成させるにしても難しい問題が実際にあります。父親、母親という役割が男性でも女性でも、どちらもこなせるという社会にはなっていないのが、現実ですし。生理的にそれが可能なのかどうかは未知数だと思います。男性は男性の生理があり、女性には女性の生理があります。
どの国でも家族を維持するときに父親、母親の役割が平等になるというのはあり得ないと思います。
性別が異なるという役割をお互いにむちゃぶりしても、多分、ギスギスします。

北欧の3ヶ国のどの国だったか失念してしまったんですが、お父さんもお母さんもきちんと休暇を利用して子育てをするというその国の文化のドキュメントをNHKで観たことがあります。
お父さんの子育てが、お父さんなんですよ。ご飯を作るんですが、子供が好きなものを作るので、栄養価考えてなさそうですし。もう、ぐちゃぐちゃなんですよ。お父さんなので、結局、合理性を先に考えた子育てになっています。子供が寝る前に片づけないじゃないですか。そのときにそのまま放っておくんです。子供一人で片づけられないくらいになっていて、助けを求めるでしょ?お父さんなので判りやすい一喝があるわけです。そして、片づけだすんです。
あれだと、ちいさな子供からすると、いつものように散らかしても怒られない、最終的にはひとりで片づけられない、訴える、予想もつかない怒られ方をするので、大声で泣くしかない、最終的には手伝ってくれるけどという。
罰の基準と規模が子供が抱えられる理解の域を超えているので。これはダメだなって思いました。

お母さんが途中で出張から帰宅していたら、間違いなく夫婦喧嘩です。
男性は最終的な合理性を目指すんですが。女性は日々の清潔だったり、栄養価だったり、子供の気持ちのガス抜きやしつけや段取りを細かく考えるんですよ。
映画を観ながら、実際に、いろんな視点を思い浮かべてさまざまな角度からいろんな事象について考えをめぐらすことが出来そうです。
Barbieの所有者が実はというところが肝なんだと思います。
いい映画だなって思いました。映画を観た後に、男女関係なく、いろんなことを考えられる映画になっていると思います。ゴスリングさんは凄いですね。こいつうざいわー、でも、面倒見なあかんねんなーっていう瀬戸際の人形を演じて説得力のあるKenにならないといけないんですから。それにしても黒のTシャツに黒のスラックスで黒の靴を履いているKenの集団のダンスの場面の音楽の壮絶な酷さは凄いなって。この場面はとても酷い音楽にしないとというときにそれを作曲する側は大変だったでしょうね。しかも、Kenを演じるみなさんはきちんとしたダンスパフォーマンスをみせないといけないんです。僕は単なるKenなんだって。僕の名前はKenなんだって。みんなKenなんだ、”masculine”で”macho”なんだけどーって。僕らにだって存在意義はあるはずなんだーって、Kenの人形が大人数で、笑顔で、自分の存在理由を取り戻していくんです。驚きながら観てました。圧倒されましたよ。本当に。