ロカビリーになかなかたどり着いていません。むつかしいです。
理由は時代背景になります。アメリカ合衆国では1930年代にラジオの普及率が跳ね上がるんだそうです。
まず、日本語対応のYouTube.comです。翻訳を間違えている箇所があるので、英語字幕をそのまま残してあります。
以上がブリーフです。
掲載したいほうは翻訳がないので、英語のままで掲載をします。
1930年代、KDKAというAMのラジオ局はペンシルバニア州のピッツバーグからラジオ局を放送していて、圏内に入っていた州は、オハイオ州、ウェスト・ヴァージニア州、メリーランド州、ニューヨーク・ステイトだそうです。一方、WWJというAMのラジオ局は、デトロイト州のミシガンからラジオ局を放送していて、もともとは、デトロイトニュース紙が母体になっていて新聞社の一室がラジオ局になって放送がされていた時期もあったようです。1920年にまで遡れる歴史があるんですって。アメリカ合衆国のラジオ放送の整備のためにかなり尽力をした放送局なんだそうです。周波数の整備です。
周波数の話をここで延々としていても意味がないので、先に進みますが。1927年にはラジオのAM派をめぐる法整備も成立したそうです。相互干渉があっても聞きづらいだけで意味がないですしね。ラジオの自作も流行ったそうです。すごいですよね。ラジオを一から作るという作業が流行をするという。アメリカ合衆国は奥が深いお国柄なのかもしれません。1929年に大恐慌があるんですが、それが契機となって、ラジオはアメリカ合衆国ではより身近な存在になっていくそうです。
当時の20ドルの価値は現在の400ドルだそうです。日本の昭和初期の100円と現在の100円にどれくらいの差があるのでしょうか?私は知りません。実は、いろんな価格帯のラジオがあったそうですが。数百ドルからというのはもちろん高価格帯ですよ。廉価版も頑張っていたそうです。
1930年代後半になると、およそ80%の各家庭で一台以上のラジオを保有していたそうです。
1930年代までに広範囲の地域で放送が聞けるNBCやCBS、MBSといったラジオ局の整備があります。
アメリカ合衆国ってとんでもない広い国なので、国内に複数の時差があります。太平洋時間、山岳部時間、中部時間、東部時間、アラスカ時間、ハワイ時間があるんです。西部のサンフランシスコから東部のニューヨークまでで、約2時間の時差があります。トランスミッターでバランスをとるのでしょうか?トランスミッターにそこまでの能力はあるのでしょうか?変電所の整備なんか調べてもしょうがないので先を急ぎます。
日本の常識からすると、途方もなくって。想像がまったく及びませんよ。
それでも技術の進歩は凄まじく全米でラジオが聴けるようになるんです。実は、全米に広がるキー局のラジオ局もあれば、地元のラジオ局も豊富にあるんですよ。そして、むつかしいことに音楽のカギを握るバンドが地元のラジオ局で仕事をしていたりもします。
この時代のアメリカ合衆国の全国区の知名度というのは、それだけむつかしかったんだと思います。

音楽については、クラブの文化があるんですよ。東海岸では。
ニューヨークにはいくつかの有名なクラブがあるそうなんです。
コッポラ監督が映画化したのはそのうちのひとつのコットン・クラブです。
わたしが言及するのは別のクラブです。
Café societyです。Café societyはニューヨークに存在をしたクラブで、アフリカにルーツをもつ昔のアメリカ人の音楽を主に扱うクラブになります。
アメリカの最初の高級な音楽を扱うナイトクラブになるそうです。
ピアニストのMeade Lux Lewisさんは1905年にシカゴにお生まれになり、お父様はギタリストでLewisさんにバイオリンを教えてらっしゃったそうです。お父様が亡くなられた後はバイオリンを諦めて、ピアノに楽器を変更なさったそうです。1927年にはパラマウントレコードから音源を出してデビューをなさっておられます。
Albert Ammonsさん(音源は紹介済みです)やPete Johnsonさんとご一緒にCafé societyで演奏をなさっておられたそうです。
ジャンルとしては、boogie-woogieという音楽ジャンルの牽引者として著名なピアニストになります。
実は以上の3人のみなさんで作曲をなさった“Cafe Society Rag”という1943年の楽曲があります。
アメリカの東海岸の音楽の層は分厚いですよね。すごいなぁって思います。そして、Meade Lux Lewisさんのデビューを飾った曲のタイトルというのは南部にその源があるんです。
音楽を聴く場所というのは、実は南部にもあるんですよ。
主にカントリーミュージックが演奏されるバーがあったそうです。Honky-tonkと呼ばれるそうです。
The Rolling Stonesの曲で“Honky-Tonk Woman”という楽曲があるでしょ?
I met a gin soaked barroom queen in Memphis
She tried to take me upstairs for a ride (yeah)
She had to heave me right across her shoulder
Cause I just can’t seem to drink you off my mind (no)
It’s the Honky Tonk Women (yeah)
Give me, give me, give me the honky tonk bluessource: https://www.lyricsondemand.com/rolling_stones/honky_tonk_women
ジンで酔っ払ったバーの女王にメンフィスで出会ったんだ。
彼女は俺を二階に引っ張り込もうとしたんだけれど。
彼女は俺を背中に背負って担がないといけなかったんだ。
だって、あなたの理性までぐっと飲み干すなんでできないでしょ?
あれがHonky-Tonkの女性なんだ。俺にhonky tonkのブルースを聞かせてくれよ。
あの曲の最初に描かれいるのが南部の労働者のためのカントリーミュージックを主に扱うバーになります。そして、歌詞に書かれているようにカントリーミュージックとブルースが並行して演奏されもしていたようなんです。
では、Meade Lux Lewisさんのデビュー曲は”Honky Tonk Train Blues”です。1927年の録音だそうです。
お聴きになるとわかると思うんですが、ブルースの要素とboogie-woogieの両方の要素が入っているんです。アメリカ合衆国の音楽って簡単にジャンル分けができない要素がかなりあるのがよくわかると思います。
そして、バンドのリーダーとして、作曲家として、ピアニストとして、ジャンルを横断しながら音楽をけん引なさったアフリカ大陸にルーツをもつアメリカ合衆国の音楽家として著名なのは、Jelly Roll Mortonさんです。
ビートの強い、リズムに重点をおく初期の南部のジャズのジャンルに”stomp”がありますが。1900年代にJelly Roll Mortonさんが作曲なされた楽曲もあります。
Mortonさんは南部のご出身なんです。所説あるそうですが、1890年にルイジアナ州のニューオリンズにお生まれです。子供のころにスポーツ施設でジャズをやっていたのを、おばあさまに見つかってしまい、一家の恥だから出ていきなさいって怒られたこともあるそうです。Mortonさんが子供のころにはジャズは子供が演奏する音楽ではなかったみたいです。
むつかしいですよね。
音楽はクラシックでなければいけなかったのでしょうか?
おばあさまはそんな悪魔のような音楽を演奏するなんて、きっと酷いことが起きるに違いなんだからと、Mortonさんにおっしゃったそうですが。お孫さんがその音楽ジャンルの草分けとして後に大活躍をなさるなんて思わないですからね。
1926年にはVictor Talking Machine Companyと契約をなさいます。
この時代の音源になります。Jellly Roll Morton’s Red Hot PeppersでBlack Bottom Stomp(1926)です。
それからMortonさんはニューヨークに移られるんですね。ですが、大恐慌のとき、1931年にビクターが契約を打ち切っていまい、ワシントンに移られるんです。そこで、アフリカ大陸にルーツをもつ昔のアメリカ人に特化した音楽のバーを経営なさるんですよ。実際に、演奏もなさったり、バーテンダーもやったり、頑張られたそうなんです。
その時期の音源だと思うんですが。1936年の”Honkey Tonk Music”です。
ジャズとブルースの要素がある素晴らしい楽曲ですよね。
1930年には音楽制作の拠点がたくさんあったはずのニューヨークや近郊のワシントンなどで、ジャズをベースとして様々な音楽が楽しまれていて。その音楽のルーツの一部は実は南部にあって。
南部のhonky-tonkと呼ばれる労働者が集うバーで演奏されていたブルースが、演奏する音楽家の移動によって広がるということがあったのかもしれませんよね。
そして、ここから10年が経過すると大変なことも起こったりもするんです。
第二次大戦前夜の年ぐらいになると、音楽の業界も大変だったみたいで。おそらくラジオ局なんかであまり流れなかったテキサスやオクラホマのhonky-tonkで演奏されていた音楽を、これが”hillbilly music”なんですって誇大広告を打って、遠くの西海岸に売り込んで商売を頑張ろうとしてしまったりもするんですよ。
例として挙げますね。
Floyd Tillmanさんの“I love you so much it hurts” (1948)です。
この曲に惹かれた西海岸の人たちが、遠くテキサスやオクラホマを旅行して”honky-tonk”のバーに出かけた際には、きっとカルチャーショックを受ける可能性だってあったかもしれません。
たった10年で音楽の意味がものすごく変わるんですよ。表面的には。
距離があることをいいことに、当時の音楽業界のひとが適当な売り込みをして、同じアメリカ合衆国の国内なのに、混乱しか生み出さないような状況を作ったのかもしれません。
その一方で、全国区のラジオ局はあるんです。
1935年のビルボードの1位の楽曲はFred Astairさんの“Cheek to cheek”です。
3位の楽曲を掲載します。Ray Noble and his Orchestraで”Isle Of Capri”です。
全国区のラジオ局でかかる音楽と、その土地、その土地の音楽は全然別なんですよ。
こんな状況でロカビリーが生まれるんです。
なんだか信じられないですよね。
R&Bはアメリカ合衆国の様々な音楽をルーツとしてその総合的な融合で成立しているのかもしれませんが、ロカビリーはその土地に根差した音楽と様々なルーツを持つ楽器で成立するみたいなんです。調べていても、いつでも奈落に突き落とされる感じになります。霧がたちこめて全く前が見えない状況もあります。アメリカ合衆国の音楽はむつかしいんですよ。