サッカーは休憩中です。

女子のA代表のみなさん、察してください。鹿島の現状と日本の男子のA代表の現状で精いっぱいなんです。

女子のA代表まで試合を観る元気がありません。

全面的に、謝っておきます。ごめんなさい。

という訳で、サッカーを最近殆ど観ていません。観なかったら、観なかったで平和だなぁーと思いながら、読書をしていたりします。

一度、Web上のとあるところで、村上春樹さんの文体って成熟しないという議論があって、??っとなりました。

すみません。オーウェルと何の関係もない『1Q84』が文庫になりはじめ、結果的に大体全部読了するのに4,000円弱かかるという事実に気づいた時に、うんざりしてしまい、そこから止まっているんですよ。

村上さんの新しい小説については読むだけ読むという習慣が途絶えたんです。

すみません。いつか、せめて上中下巻でわけてもらって、2,500円でお釣りがくるくらいに抑えてくださると読むかもしれません。

村上春樹さんの文体の成熟と未成熟ってなんなのだろうと立ち止まり、読んでいないので、小説に関しては全くわからないんですが。

悩みました。

作家の文体って、作家自身の実人生の総体を投影させるものではないはずなのにと思うんです。

村上春樹さんって実はいろんな文体をもっています。翻訳者でもあるからなんですが。また、エッセイもお書きになるんで尚更です。

https://bungei-bunko.kodansha.co.jp/recommendations/1.html

ここで、講談社文芸文庫のサイト管理者の方へのお知らせを挟みます。講談社文芸文庫のサイト管理をしている技術者のみなさん、httpの後の”s”が欠ける状況になっているので、改善した方がいいですよ。

では、閑話休題。

上記の文体は、村上さんの小説に運用はなされていないような気もするんです。文体論の場合は、作家が書いたものの総体に対してなされるので、小説だけでは判断がつかない場合もあるんです。

村上春樹さんの文体に成熟が欠けるという議論はむつかしいなぁーと思いました。

村上さんが「血湧き肉躍る冒険小説」と書いてらっしゃるので、そのうち読みたいなぁーと思います。『鉄仮面』っていうとデュマだけじゃないんですね。驚きました。

いろんな方が講談社文芸文庫で「私の一冊」を選んでいます。

近年、新しい小説を読んでいないので、存じ上げない方もいらっしゃいますが。驚いたのは、吉田健一の『時間』を選んだにも関わらず、通読すらしていないという方です。

講談社文芸文庫って結構幅広い本を取り扱っているので、せめて読了したものを「私の一冊」でとりあげないと、夏の読書感想文で頑張っている人たちに対しても、示しがつかないような気がしました。

ちなみに、私は『時間』の文庫はもってますよ。何回も読んでます。正直大好きな本です。

読みづらかったら、チャプターが振り分けられていますから。そこからでいいじゃないですか。

とても素晴らしい文体ですよ。

わたしが、例えば、「私の一冊」を選ぶとすれば、この本になります。

わたしなんて、昭和52年に18刷までになった新潮選書を、古本屋さんで購入しています。大事にしています。いいなぁー、1,650円で購入できるんだぁー、いいなぁー、わたしが購入した時は古書だったので高かったのに、いいなぁーって羨ましく感じます。

シェイクスピアなんてむつかしそうという人でも通読してしまえば、こっちのものですよ。この本を通読してから坪内訳で読んでも大丈夫だと思います。

中野先生はこうお書きになっています。

そんなわけで、日本におけるシェイクスピア理解がおくれたについては、私は次のような理由を考えている。一つは、かんじんの作品自体が読まれるより前に、まずシェイクスピアが曠古の大文豪だとか、またその作品が世界的古典などという余計な予備知識をもって叩き込まれたことであり、第二は、彼の作品があまりにも多く心ない英語教師たちによって、教室でテキストとして使用されたからに相違ない。およそどんな文学的作品でも、教室でテキストになったらおしまいであることは周知の通り。まことにそれはあの緑の牧場を枯草ばかりあさって歩く哲学者の愚かさに似ているからである。

『シェイクスピアの面白さ』

身も蓋もない先生なんですよ。中野先生は。

中野先生によるとシェイクスピアは28歳ごろまでに劇作家として不動の地位を確立して、47歳頃までの20年足らずの間に怒涛のような30篇の劇作を残すことになるんですね。

シェイクスピアの文体と成熟って研究課題になるんだろうか?とも思ったりもします。

中野先生の筆致をもっていろんな作品がさっさかと分析されていくわけです。こっちを先に読んでから、坪内訳のシェイクスピアを読むのも個人的にはいいのではないだろうかとも思います。

中野先生の鋭さと、ぐいぐいと次に次にと読者を引き込んでいく力業には誰も勝てませんし、まぁ、たまに、先生、私は随分と後の時代に読んでいるので、昭和初年の遭難事故なんてしりませんと思いながらも、挿話としては普遍的な筆致なのでイメージがなんとなく共有できてしまうんですよ。

あの、先生、そこはどうなんでしょう?という状況が次々に繰り出されるんですが、先生の筆致の方がスピード感があるので、負けてしまうんです。先生はかねがねシャイロックを関西弁で訳したいという誘惑にかられていらっしゃったらしく、一部訳を披露してらっしゃるんですが。散々一節訳したあとに「はじめにもいったように、これは冗談である。」って書いたりなさるんです。また、いい感じに関西弁に、まさにそこっていう部分を翻訳なさっていたりもします。むかしの関西弁ですけれど。

先生はこの部分は結局、シャイロックを関西弁で訳したいだけだったのかもしれないと思いながら、さらに次に読み進むことになります。

実は、シェイクスピアで卒論を書くという迂闊な選択をした、という学生さんにもおすすめの本です。

更には、吉田健一もシェイクスピアに触れているんですよ。なぜか講談社文芸文庫は重版かけなかったようで、もう手に入らないようです。私は購入しましたよ。

生誕100年では復刊で散々取り上げて、売り切って重版かけないそうです。

誠実さがかけるような気がするのは私だけでしょうか?

「シェイクスピアの十四行詩について」という一遍がすばらしいのにも関わらずです。

エリザベス時代の劇作家達の中で、シェイクスピアだけがその正体を廻って論争が絶えないというのは、考えて見れば面白い現象である。教会で洗礼を受けたときの記録や遺言状のみならず(二番目にいい寝台を我が妻に…..)、何年何月何日に誰に幾らの金を貸して、何年何月何日にその金を取り立てる為の訴訟を起したということまでがわかっている人間の実在が疑われ、例えば、どこで生まれ、いつどこで死んだのかも解らないウェッブスタア、或はタアナアの作品は紛れもなく彼等が書いたものだとされているのはどういうことなのだろうか。

英国の文学の横道

思わず惹きこまれてしまう文体を吉田健一は持っているんです。お父様は吉田茂ですが、後は継がなかったんです。吉田健一の文体が好きな人にとっては有難い選択になります。『時間』だけが吉田健一の文体ではないのです。

とりあげるシェイクスピアの詩と吉田健一の対訳がついて、そこに論考があるという。

生誕100年には乗っかるくせに、その後、読む人が少ないと見越すと、重版掛けないそうです。講談社文芸文庫って結構あくどいんだなって思いました。

本との出会いは大事ですが。なぜ、大事になるかというと、その本が10年後にも手に入るかどうか定かではないという出版業界の杜撰さがあるからなんです。杜撰ですよねっ。

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