文脈の解体可能性。

例えば、読書というのは「選択」の連続でもあります。

私が今後永久に読まないだろうなーという本があります。例えばの話ですよ。

歴史は現代文学である « 名古屋大学出版会 (unp.or.jp)

原題はフランス語で「歴史は現代文学である」という意味です。

それは、ないなと思うのです。

歴史は英語は “history” です。”history” の第一義は「調査をしていく」という意味です。あるいは、「探求をしていく」です。ギリシャ語に端を発して広く使われるようになっています。第二義が「書く。あるいは、誌すです」 調査探求をして、明示化されたものを、誌していくと歴史が立ち上がるということになるそうです。

これは私のアイディアではなく、とある対談集で知った考え方です。

Historyは、確かに、storyなんですが、万人に開かれているという視点については、留保は必要になるとおもいます。

目次だけみていると、研究者個人の姿勢に矮小化されていくのかなぁーって思うんです。

それだけ内省的なのかもしれませんが。

文学と科学を併置はできないので。

論じ方になるんですよ。こういう「存在」というのを切り分けて、多種多様な文学に敷衍しようとしても、文学自体は豊饒な世界観を提供する器になるので、取り落としが出てきます。

つまり、論じ切れていない、あるいは、論じるべき姿勢が論じるテクストとかみ合っていないという現象です。

研究者個人の姿勢になってしまうと、それぞれなので、文脈自体が基本の視座というものを共有できなくなる危惧も想定されます。

ベケットが演劇で上演されるときには、ベケットのテクスト自体に、断定できない、或いは、意味づけを拒否する臨界点というのが要請されているので、ある程度、幅をもって、どの国でも、上演できる可能性を持っています。シェイクスピアが前提にはなりますが(実はなります)、解釈を拒絶する臨界点が存在するからこその自由というのがあるんです。

ベケットの親切なところなのかもしれませんが。

つまり、ベケットのテクスト自体が、場所を開いているんですね。時系列も無視しても構わないですし、解釈自体も多様でいいけれど、順守すべきテクストの枠組みはあるんです。

個人の姿勢まで、矮小化されてしまうと、それはあなたの歴史ですよね、それで?という敷衍化を避ける姿勢を内包する可能性は十分にあるわけで。

どうなんだろうーなーって思うんです。

キケロのレトリックにどれだけの幅があるのかは気になりますが。

読まないだろうなーって思います。

個人の自分語りに研究が落とし込まれると、それは、と思ってしまいますね。あ、目次しかみてませんよ。あくまで。

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