最近の大学でどんな人文学の研究がおこなわれているかとか、あまり興味がありません。
英文学のトピックスすら特に興味を持っていません。
勉強しすぎたのかもしれませんっと、言うほどには勉強はしていませんよ。
ただ、びしびしと鍛えられてしまった背景はもっています。
文学も哲学も結構読み倒してはいるので、着眼点が弱いと、弱いなぁーって気づいてしまうんですね。
言語を扱う哲学を考えた場合に、例えば、フレーゲを取り上げるとしましょう。
オープンデータに論文はいくつか挙がっています。
そして、日本語に翻訳されたものやフレーゲに関する論考を読んでいくでしょ?言語の壁を感じるんです。論理学ってとてもむつかしい分野になるんですが。言葉と数学を越境させようとするので、方向性としては、別方向の物を、同じ方向性に置くというかなりハードな学問になります。
主観ー客観という仕切りがありますが。発話の際には言語によってはこの「主観ー客観」は転倒可能なので、机上の論理と、世間話の荒唐無稽さは、ひとくくりには出来なかったりします。
フレーゲは様々な努力をしています。ここでは一切触れませんが。
興味がある方は、本を手に取るといいと思います。
できれば、手にとってみてください。実は結構勉強になるからです。

ですが、フレーゲの考察は万能ではないんです。
フレーゲって誰?というみなさんは、とにかく調べてみてくださいね。
面白い着想は沢山あるんです。
ただし、時代性の中にくくられてしまう限界値を持つ論理学者になります。1925年にフレーゲ自身は亡くなってしまうんですが。
現代の言語学に敷衍できるかというとかなりむつかしい論理学者になります。
間にオースティンを挟んだとしてもむつかしいのです。

ドイツ語は全く理解しませんが、英語に比較すると統語はきちんとしているはずです。きちんとしているというのは、英語ほどの揺らぎを統語内に抱えないという意味においてです。
ドイツ語の現在には敷衍できるのかもしれませんが。
英語のような言語には汎用できないんです。同時代の英語でさえむつかしいと思います。
英語って脈絡がない文章を文学で記述する場合が想定できますし、実際に脈絡がないように見えてしまう文章の連なりで文学が形成されるので、フレーゲはドイツ語圏内なんだろうなって思います。
フレーゲで適当な論考をみると、??って思います。
ドイツ語はわからないんですが。
翻訳でも、言語が異なり、その差異を理解せずに論点として飛躍した引用をすると、あなたはダメですね、勉強不足ですよっと判子を押される感じになるんですよ。
どの言語の論理学者や哲学者にもそういう人っていそうですよね。
日本語はどうなるんだろうと思いながら、実はよく知りません。
勉強不足です。
本当にごめんなさい。
ウィトゲンシュタインを勉強していた時に、フレーゲの著作は読んだことがあります。言語ゲームの中にはフレーゲは敷衍できないんです。ウィトゲンシュタインは英語で講義していますし。ただし、フレーゲはフレーゲとしてきちんと論じられてると、勉強になるんです。私は日本語文献で読んでいますが。ドイツ語圏内で論述されるのはわかるんですが、米語圏や英語圏でフレーゲを応用させるのはどうかなと思います。英語って適当ですからね。オープンデータを調べると良識的な論考が日本語で読めますよ。きちんと。基礎知識としての勉強はやろうと思うと出来るんですよ。学生の時に、専門外の講義を受講しなくてはいけなくって、いろんな先生を訪ね歩いたことがあります。とある先生には、僕の研究は言語学のなかでも細かいところをやっているからと、断られたことがあります。つまり、英文学ど真ん中で、言語学については基礎的な知識しか持っていないと受講自体が困難で、先生からすると教える手間がかかると困ってらっしゃったのだと思います。そうですかーっと素直に引き下がると、先生は、もしね、誰も引き受け手がいなかったら、またいらっしゃいと一言付け加えてくださいました。本当に、誰も引き受け手がいなかったら、またいらっしゃいって言ってくださったんです。そんな場所で勉強をしていました。なので、東京を中心とした英文学の中途半端な姿勢にはついていけないんですよ。関西はがっちがちに勉強する地域になります。もちろん、東京を中心とした学究において、きちんと英文学を研鑽なさっておられる先生がいらっしゃるのは存じています。