「借りてきた猫のよう」という比喩表現が日本語にはあります。猫は内弁慶なので、別の場所に行くと、普段のようにふるまえず、非常におとなしくなっている様子を指します。
ほぼ、検索用に使っているTwitterでも「借りてきた猫のよう」に使われている言葉を見かけます。
つまり、使う人が使う言葉を上手く利用できていないので、修辞のなかでその言葉だけが「借りてきた猫のように」浮き上がってしまっているのです。
最近、本当によく見かけるようになりました。
多分、言葉の運用者のカッコいい発言をしようという姿勢に、翻弄されて自滅しているのかもしれません。用いられた言葉たちが、です。

こういうことに、気づきやすくなっている背景が、私にはあります。
移動経験です。以前住んでいたところでは本も新聞も身近な存在でした。それは、ありふれたことだったのです。
大学も沢山ありますから、小難しい哲学書をドトールやスタバで読んでいても、誰も気にしません。
移動してきて住んでいる場所では本を読む人がかなり少ないのです。読書という習慣すら根付いていません。
なので、文法が違うのです。おなじ日本語なんですが。

イギリスからアメリカに移り住んだみたいですよ。それくらい統語論が異なります。
住んでいた場所では、土足で人の心に住んでいる場所に、ずかずかっと入っていくのは禁忌行為です。ある程度の仲のよさでも、用事は玄関先で済ますのが日常の礼儀です。
移って来た場所では、そのような自分と他人の区別が、あいまいになっています。本当に土足で入ってきますし、それが普通だとみなさん思っています。
住んでいた場所では、物事を説明するときには重要な箇所に繰り返し触れながら、1から10まで丁寧に説明するというのが当たり前でした。
移って来た場所では、まず結語から述べるのが筋みたいです。そして、説明に移ります。ただ、説明の部分を、みなさんあまり重視なさらないので、すぐに誤解が生まれやすいのですが、それを気にも留めないあっさりした気質を、みなさん持っています。
本当にイングランドとアメリカくらい、統語が違うんです。

きちんと話を聞いているんだろうか?と悩むこともしばしばです。
SNSの影響も少なからずあると思います。限られた言葉数の範囲内で反応しなければいけない上に、スピード感も求められるのです。脊髄反射のようです。言葉の反応が脊髄反射のようになるということは、自分の思考が言葉を形作る文脈の中に、きちんと反映されないことにもなりかねないのです。
うーん、と受け止めた言葉を一時預かりにして、ちょっと考え込むということ自体が、出来ない層も出来上がっているのかもしれません。これに関しては、年齢層は関係なさそうです。
人の話を聞く分には楽なのですが。関西圏のコミュニケーションの仕方しか出来ませんし(体に沁み込んでしまったものが、変わるはずはありません)、むつかしいなぁーと思う局面に、出会うことは多々あります。

間違えたら、すいませんって謝る文化圏から、間違っても、謝るのは沽券にかかわる(大分、大げさな表現の仕方をしています)という、文化圏への移動に伴うコミュニケーションの変化に、なかなか慣れるのがむつかしいのです。
全てのひとがそういうわけではないので、なおさら、疲れます。
借りてきた猫のような言葉を沢山聞いたり、読んだりしたくはないんですけれど。
しょうがありません。
住んでる場所のみなさんは、とても親切なんですが、勘違いも少なくないんです。親切心が上回っているだけに、たまに辛いなぁーというところに置かれることがあります。普段は流してますが。流せないときの対処法がむつかしいんですよ。いざとなったら、筋をきちんと通すことにしています。