今日がX’masなんですよ。

12月25日がクリスマスなんです。

欧州の国によっては、はじまりは少し時差がありますが。

ナザレのイエスさんの誕生日とは全く関係ありません。誕生日がわからないんですから。正直、誰も知りません。

欧州では、冬至のお祭りと混じってしまったという説が主流なのかもしれません。当時のお祭りといえば、ヴァイキングなんですよ。

ヴァイキングって、交易の民の人たちなので、北欧からローマ帝国圏まで、余裕で(?)交易をしていたそうです。

わたしは詳しくないので、よくわからないのですが。

キリスト教の侵攻(?)が全くなかった時に、北欧では冬至の時にお祭りがあって、冬の寒さも嵐もあるのでしょうし。そういう寒い冬至の時期には、死者の霊や悪魔や魔女など禍々しいものが一挙に押し寄せるそうなんです。なので、ご馳走を作って捧げもののようにしていたという説もあります。

冬至には御馳走を用意して、禍々しいものに捧げるという形をとって、栄養をしっかりとつけていたのかもしれません。

英語には”yule”という言葉が残っています。

クリスマス教の到来以前に、”yule”というお祭りのときに、おおきな薪を森から切り倒してきて、クリスマスから新年まで延々と、薪を燃やし続けたりもしていたそうです。

キリスト教が到来するまでに、お祭り自体が欧州一体である程度広がっていると、何らかの形で、キリスト教の節目とのむずび目にならないといけないので、自然と折衷案が取られたのでしょうか?

むかしの宣教師の皆さんが、禍々しいものがやってくるよりも、ナザレのイエスさんの誕生日にしたほうがいいのかもしれないとか、7世紀から10世紀の間に考えたのかもしれませんよね。

禍々しいものがやってくるから、祝宴を捧げるという当時のヨーロッパで支配的だったお祭りの形態よりも、神様の誕生日とそのお祭りの風習を混ぜてしまった方が、数世後には、平和的な解決策になるのかもしれないと、あちらこちらで似たような発想で暦の置き換えが起こっていったのかもしれませんよね。

800年代とか活動の領域は広がるんですよ。北欧の交易の民の皆さんは。北欧のヴァイキングの交易自体は活発化しているということは、欧州の地域地域に当時お住まいだった皆さんの交易自体もそれなりに活発だったのかもしれませんし。

既に定着していた禍々しいものに捧げものをするという冬至のお祭りと、そのお祭りの形態は得意技だよという北欧のヴァイキングの皆さんの交易の民としての側面と、宣教師の地道な活動の小さな葛藤が、現在のクリスマスの折衷案に繋がっているのは、確かなんです。

但し、詳しい文献をもっていないので、詳細なところが調べきれてないので。

そんな自分に少しがっかりしていますが。

持っている文献には、アイルランドでは、伝道に入った宣教師のみなさんがキリスト教の布教をしていくときに、アイルランドの土地にある昔からの神話を丹念に現地調査をして、その神話が持つ精神性をあまり侵害しない形で、神話をキリスト教のモチーフに置き換えていった歴史があるそうなんです。

欧州全体で、7世紀から10世紀までキリスト教の侵攻(?)を宣教師の皆さんは全力で頑張ったはずなんですよ。

それでも中世のアイディアを駆逐は出来ずに、いろんな形でクリスマスと馴染んでいろんな国に中世の名残りとして残存してしまうんです。

ブッシュ・ド・ノエルは、冬至から燃やされる薪を模したスイーツとも云われます。

いろんなかたちで、中世の風習は現代に残るみたいですね。歴史の塗り替えを宗教的側面から頑張ったところで、実際の歴史的背景を持つ暦の力にはどこかで負けてしまうんでしょうね。

現代だと、26日からはじまるボクシング・デイとか、中世には、ありえない年末大安売りもあります。第2次世界大戦後に、ヨルダン川西岸地区で、世紀の大発見と呼ばれる「死海文書」が発見されます。紀元前150年から西暦70年に作られた写本なんです。その地域にお住いの皆さんによる旧約聖書とその他です。2010年にネット公開されたんですが。音沙汰はその後、特にないですよね。ヘブライ語やアラム語、ギリシャ語で記載された文書になります。しかも当時のヘブライ語やアラム語(こなせる人は少ないと思います)、そして、古代のギリシャ語ですから。旧約聖書って、キリスト教とユダヤ教の聖典になります。イエス・キリストが直接関係あるかどうかは今後の研究になると思いますよ。だって、新約聖書が見つからないからです。ナザレのイエスさんの生没年ですら、キリスト教圏で共通理解が無いんです。つまり、定説がゼロなんです。実は、同じ土地で宗教を持つムスリムの聖典であるクルアーン(コーラン)にも記述があるそうです。実は、キリスト教がヨーロッパに広がる契機になっているのは、十字軍遠征なんです。第1回が1096年から4年かけて行われるんですが。騎士は死闘を繰り返し、人々は物見遊山にエルサレムに大挙するわけですから。本来の趣旨の十字軍遠征は1回目が最初で最後なんだそうです。大変だったそうなんですよ。ヨーロッパ人による聖地巡礼の旅になるんですが。ユダヤ人はユダヤ教徒になるので、欧州の一部では、過度な迫害はよくないと人道支援まであったんです。ヨーロッパ人が大挙してくるんですから、ムスリム圏も驚きだったそうですが。ムスリム圏では軍事侵攻がなされたという歴史の記述が乏しいそうです。だって、急遽巻き起こった聖地巡礼の旅の熱狂ですからね。当時、ユダヤ人の人権支援に当たったのは、現在のポーランドです。「ユダヤ人の自由に関する一般憲章」という憲章が1294年に成立するまでになるんです。教皇ウルバヌス2世が大セルジューク朝との戦いで援助を求めたクレルモン教会会議で行った演説の記録は、実は残っていないそうです。そうでしょうね。自分が援助をお願いしますって熱弁を振るって招いた結果が、欧州の各地域にお住いの皆さんが大挙する聖地巡礼の旅だったんですから。柄の悪い人たちも大挙して押し寄せたので、現地のひとは迷惑も被ったそうです。十字軍ですし、実際に軍隊(?)の衝突もあったので、大混乱ですよ。きっと、誰も成功なんて言えない十字軍遠征です。交易もあれば、武力衝突もあり、きっと、教皇ウルバヌス2世は、止めとけばよかったって内心思ったかもしれませんしね。エルサレムが包囲されて、2週間後くらいに亡くなってしまうそうですが。当時、エルサレム周辺のムスリム圏にお住いのみなさんからしても異例づくしでしょうし。「西洋対ムスリム」という構図がそもそもないですから。知らない間に12世紀まで続くことになる、西洋の性質を帯びた様々な国の様々な宗教をもつ人が行き交うことになる交易の国がエルサレムに忽然と現れるという不可思議な状況になったみたいです。12世紀後半まで存続できるんですから。元々、エルサレムは古代からの交易地なので。土地の性質として馴染んだのかもしれません。1099年に国際的な交易の国、イスラエル王国が出来たのですが、925年後に、つまり、去年の12月ですが、一部のユダヤ人の権力者によってジェノサイドが行われるんです。呪われた土地のようになっていますよね、もう。ムスリム圏の聖地はメッカなので。ユダヤ教徒とキリスト教徒の聖地がイスラエルです。メッカは基本的に異教徒が入れませんし、外に開かれない聖域という性質を帯びています。イスラエルは土地の性質上、交易地であったので、このムスリム圏の作法がとれなかったんです。むつかしいですよね。わたしは信仰する宗教をもっていませんが、これだけ呪われた土地があるだろうか?血みどろの歴史で塗り固めれた土地があるだろうか?って思います。ジェノサイドについては個人的に非難の気持ちを根強くもっています。イスラエルという国があるからこそ、政治と宗教を除外する志向性を持つfootballが、政治と宗教のコンタミに遭うんですよ。関係のないことで、しかも、スポーツで無意味な非難を受けるんです。イスラエル代表がです。現場の選手の皆さんやチームが政治的な姿勢を示すとは思えませんし。気の毒でしかありません。Footballに宗教と政治は禁忌のはずなのに、欧州では混乱まで生んでいます。国があっても構いませんが、暴力と背中合わせというお国柄は受け付けません。宗教については、暴力性を常に内包する性質があるので、興味がないのです。

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