異なる世界観。

排除をしようという姿勢はないのですが、警戒心を持ちなさいと徹底的に教育を受けたのが、「〇〇イズム」を安易に信頼してはいけませんという姿勢です。

英文学だと本当に沢山あります。イズムについては基本的に括られた枠内でしかその動性を保てないという特徴と、腑分けをされるときに政治的な身振りに左右されるので、取り落としもすくなくないのが実情です。

この間、学生だった時の現代文学理論を扱った本を読み直していたんですが、結構雑な内容だったりします。トピックを挙げて、それを各先生方が、文字数制限のあるなかで説明をしていくという内容なんですが。網羅しようとした内容と、先生方の擦り合わせと、先生方の読みの深さの落差がむつかしい現状を生み出していて、再読していても結構雑だなと思ってしまいました。

最近だと粗雑さって増しているのでしょうか?

現在の現代文学理論に疎いので、知らないのですが。

例えば、テクストを扱う時に、その先生の解釈だと記号論が導入される展開があり、その変遷をいくつかに分けて説明を行っておられるんですが。

はじまりの短い文章で既にぎっちぎちになっていて。ウンベルト・エーコを皮切りに、ロラン・バルト、締めがソシュールという斜め上の展開なんですよ。

本が上梓されて時間が経過していても、評価もそれなりに高いんですが。諸先生方には、もう少しページを割く余裕は与えられなかったんだろうかって思います。

わたしはフランス文学のテクストを読みこなす技量がないので、翻訳でしか読んでないのですが。

フランス文学の専門家はこれで納得するのかな?って疑問符が浮かぶんですよ。

ウンベルト・エーコは記号論が専門なのは間違いないんですよ。同時にテクストの読解もします。

エーコが提唱したテクストを読むときの姿勢って案外多岐にわたっているにも関わらず、ひとつの本から、その部分の担当の先生にとっては使い勝手が良さそうな引用だけがあり、ロラン・バルトへの接ぎ木のような扱いをエーコが受けているという内容になっています。

ロラン・バルトの「作者の死」に繋げるのに、無難なところで、エーコを呼び水のように使ったけれど、成功していないという流れになっています。

なんでこんな内容なんだろうって。

イギリスの文学批評の場合は、オックスフォード学派などかあって、議論が活発になる歴史的経緯があるので。フランスはわからないのですが。

バルトに接ぎ木されるエーコは斬新すぎますし。

「作品とテクストを対立させ、作品は作者のもの、そして、テクストは読者のものであることを明らかにし、作品と作者に死の宣告をしたのである。この瞬間から、現代文学批評が始まる、といえば言い過ぎだろうか。」

言いすぎだと思うんですよ。翻訳をなさった花輪先生にこっぴどく叱られるんじゃないのかなって思います。

バルトにも無視されるのでは?と思うんです。バルトの文章を確認しましょう。作品のなかに作者の実人生を読み込みすぎて、私たちって案外失敗を重ねているんですよというバルトによる指摘があって、「作品」に対して付きまとうわかりやすい「作者」のイメージというものをどうにかしないといけないという試みはあったんですよという指摘もあります。バルトは説明を尽くす人なんです。

フランスでは、おそらく最初にマラルメが、それまで言語活動(ことば)の所有者と見なされてきた者を、言語活動(ことば)そのものによって置き換えることの必要性を、つぶさに見てとり予測した。彼にとっては、われわれにとってと同様、語るのは言語活動(ことば)であって作者ではない。書くということは、それに先立つ非人称ーこれを写実小説小説家の去勢的な客観性と混同するのは、いかなる場合もできないだろうーを通して、≪自我≫ではなく、ただ、言語活動(ことば)だけが働きかけ≪遂行≫する地点に達することである。

物語の構造分析

煽情的な感覚で記述はしていないんですね。テクスト群を読解してまとめるにしても、ちょっとなぁーって思うんです。

わたしはマラルメの詩については翻訳を頼らざるをえません。ただし、英詩でも言葉の配置や語感、また統語の仕組みを考慮しながら言葉を配置することで、様々な効果というのが得られるので、その部分の追求になるのは、漠然と理解はできます。語感の理解はできません。日本では私小説というのが小説の基本に据えらえる歴史がありますが、イングランドの場合は、バルトが言及する「写実小説」がそこまで「去勢的な客観性」は帯びないという背景があります。そこはその国に住んでいるひとの気質の違いになると思います。ハーディーの小説群を「写実小説」として単なる括りを課してしまうのは間違いですが。写実的な姿勢は小説の世界観を苛烈にしますからね。フランス文学の場合は、門外漢なのでむつかしいところですが、そのような徹底さが欠ける可能性があり、バルトの批判を生むのかもしれません。

集まっている先生方はフランス文学の先生なのでフランス文学については原語で読んでらっしゃるはずですし。

わたしは翻訳なので。ニュアンスが異なるのかもしれませんが。

本のはじまりから終わりまで、歯切れのいい論調が続くんですが。そこに引用されている文献の翻訳はそこまで歯切れがいい論調がならんでいるわけでもないという。

この本だけ読んで納得してしまう層がいたら、それはそれで誤解の山積みになるので。

本当にいいのかな?って今でも思っています。

何にも知らない時に、どの本を読めばいいんだろう?という時に指標になった本の一冊で間違いはないんですが。

実際に参考にしながら、図書館などで翻訳の本を読んでいくと、ここまで歯切れがいいわけでもなく、説明はもっと細かくって、キラーフレーズのために本が書かれているような内容になっていないって、ごく普通の感想しか生まれません。

本を読むときは、できるだけ翻訳の文献に当たるようにしてきましたが。

それで正解なんだって思っています。

育ちがあるので、わたしは苦手なんですよ。

判った気になるというのが一番よくないんです。岩波書店は、ソシュールの『一般言語学講義』をなぜ文庫にしないんでしょうか?需要はあると思いますよ。

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