早川書房で、いつになったら、ステープルドンの再販があるんだろう?とたまにチェックをしていたんですね。調べなおすと、なんと、筑摩書房の文庫が版権がばらばらのステープルドンを一挙に引き受けてしまっていて。
文庫が出てるなんて知らなかったんです。
一回目に刷られた本が売り切れると次がどうなるか分からないというのが海外文学の悲しい運命ですし。ちくま文庫の悲しい現実も知っているので。
文庫として出たことも知らなかった『スターメイカー』を購入しました。
気が付いてよかったぁー。気が付いてよかったぁーと思っています。

一応、網羅的にSF作品を読んできたわけでは、まったくないんですが。ピンっときた作品くらいしか読んでこなかったんですが。
文庫になっていてよかったぁーと。国書刊行会の単行本が、ちくま文庫として語り継がれるなんてどんな世界線なんだろうとも思いますが。
いいこともあるんだなって思っています。
『シリウス』も文庫になっていますが。一回読んだしなぁー、でも、もう一回読み直してもいいなぁーとも思うんですが。
まずは、『スターメイカー』ですよ。
本をきちんと読了してから、次の本を読むんです。現状、読んでいる本を数冊抱えているので、一冊のみです。
数冊は再読なのですが、英語文献は初読ですし。一冊が手一杯です。
扱っていた文庫が版を重ねることなく、版権ごと別の文庫に移ることがあるんだという知識も得ましたし。
勉強になりました。数か月に一回はちくま文庫の巡回を頑張りたいと思います。
文庫買うのが岩波文庫かちくま文庫か講談社学芸文庫で、幅がどんどん狭くなってきてます。
むつかしいですよね。
身近な本屋さんにステープルドンは置いてないんですよ。そういえば、『羊たちの沈黙』の上下巻があったので、パラパラと読んでいると同じ翻訳家で新訳だったんですね。旧訳は覚えているので、何か違和感があるなって思ったら、訳文が異なっていて。いろんなことがあるんですね。そして、ステープルドンなんて田舎の本屋さんには置いてないんですよ。誰も読まないんですかね?たまにね、むかっ腹が立ってくることもあります。田舎なのでしょうがないとは思うんですが。悲惨を通り越している感じですよ。子供のころにハヤカワ文庫のSFは読み散らかしてましたよ。子供のころからSFが好きなので。ただ、網羅的には読んでませんけれど。子供の時には『シリウス』しかなかったんです。海外文学って頑張ってるんだなって実感をするのがこういう時ですよね。
【追記】
我慢ができなくって100頁ほど読んだんです。註を読まないとわからないと思って探してもなく、イングランド文学の専門の先生が翻訳を手掛けられているわけでもないので。むつかしいんでしょうか。実は別の版だと「用語解」があるそうです。版が異なるということで訳出はなさっておられません。ちくま文庫の編集者の失態になると思います。ステープルドンなので、イングランドでペンギンとかは扱わない作家になるのは明白な事実なんですね。暇な院生がいるのかどうかは知りませんが、イングランド文学の先生を頼って、イングランドのモダニズムの研究をしている学生に声をかけるとか工夫の余地はあったんじゃないのかな?って思います。SFの分野だったら、ウェルズの研究者でもいいと思います。原稿を読んでもらうとか手段はあったと思うんですね。英語の文体を読むのに適切なペーパバックがないので、翻訳を選んだんですが。先生も”spirit”の訳出に難渋しておられるのは訳文からもわかるんですね。ステープルドンが神学に何らかの形で傾倒しすぎているというのも翻訳から十分に伝わります。出版されたのは1937年なので戦争参戦の数年前です。不可知論って翻訳があると、急にはHuxleyの不可知論とは気づきにくいんですね。イギリス文学の専門だと時代によっては、不可知論は通常は”scepticism”になるので、無神論ですが(哲学上の理論と考えると単なる無神論という受容ではだめです)。これだけ神学に何らかの傾倒を示していて、無神論って何?ってなるんですよ。ちくま文庫の編集者って英文学も読みこなせない状況になっているんでしょうか?そんな場合は、専門の先生に相談をするべきだと思うんですよ。イギリス文学専門の先生で十分だと思いますよ。単に不可知論って考えるだけでも、HumeとHuxleyだと全然異なるので、そこは専門の先生が判断をしてくれるはずですよ。翻訳の姿勢の誠意が伝わる分、せっかくのお仕事が、なんだか勿体なさすぎるんですよ。きちんと専門の先生に翻訳を渡して、院生に振り分けて(院生の方が暇だった場合ですが)、きちんとした完訳にするとよかったのにーって。そうすると訳出ではこうですが、原語ではこういう英語ですと翻訳の本文中に記載もできますし。これはHuxleyの用語ですとか、原稿の段階で、註に書くべき箇所を整理して出してきて、版が異なるのであれば、註にまとめるべきものとそうでないものを「用語解」から選別してまとめることだってできたはずでしょ?巻末に訳注をつけることできたはずなんです。ちくま文庫がだんだんと残念になっているのは理解しているんですが。ここまで杜撰なのはよくないと思います。翻訳を引き受ける先生にすべてを押し付けるんだったら、編集者が介在する意義はないでしょ?