学生の時には結構な多読でした。
わたしだけではなく、周囲の人たちも多読のひとが多かったんですよ。学生ですからね。
あるときには、話の内容をじっくりと聞いたうえで、あ、あの本がある、あの本は読んだ?って聞いたら、もうっ、読みましたって詰め寄られてしまい。自分の貧困な読書量を恥ずかしいなと思ったこともあります。
先輩に専門分野を聞いて、さっぱり意味が分からなかったり。そうでしょうって笑顔で返されましたが。
狭い世界観で勉強してるんだなって毎日でした。

勉強する部屋があり、机もあるので、勉強しようかなという感じでたたずんでいると、ドアが急にあいて、先生が入ってきたり。
なんだろう、珍しいなって思って。誰かを探しているんですか?って聞くと。
不意に本を差し出されて、あげるよって、そのまま本を下さったり。渡したかった相手はわたしで合っていたんだろうかとも思ったんですが。まぁ、いいやとそのまま有難く受け取りました。
後でありがとうございましたとお返事をしたときに。
その本をお書きになった先生が、本をくださった私の先生(複数形です)にとても印象的なことを告げられたそうで。先生の社交なんて全く知らないので、そうなんですかぁーとお返事を差し上げたことがあります。先生が印象的に思うってよほど核心的だったんだろうなって思います。

わたしの先生(複数形)は結構事細かく学生のことを見ておられ、指導熱心なんですよ。わたしがテクストの翻訳の文体でぶちぎれてしまい、酷すぎるんですよ、あの文体はあり得ないですってムカムカしていると、あのひともあのひとで大変なんだから、実はこういう出自のひとでと滔々と話を紡ぐことで、私の苛立った神経をなだめようと努めてくださったり。
わたしもわたしで、おもわず話を聞いてしまい。そうなのか、イライラがおさまるんです。
その翻訳を受け付けない気持ちは変わりがないんですが。気持ちと憤懣やるかたない憤りのおさまりは別ですよ。
それはちょっと気の毒かもしれないとか思ったり。
わたしが単純すぎるのかもしれませんが。
ただし、誤読というものを全く許さない先生で(わたしの先生方は学生の誤読を一瞬の隙も見逃さず、きちんと正す先生方で。学ぶ学生一同はだんだんと誤読ができなくなるという厳しい環境でした)、しかも、その本は生理的に無理なんです、読めません、わたしには無理ですっと当惑して、わたわたしていると、読めなくってどうするのって蹴倒してくる(修辞です)先生でもあり。
もう、勉強し放題でしたね。
とある先生には家庭教師じゃないんだからと怒られ、とある先生には大好きといっていた作家がノーベル賞を取ったねと、先生が翻訳なさった作家のコメントのテクストが送られてきて、これだと元のコメントが掲載されているサイトのURLを教えてくださいとはお返事を返せない状況になっている、実際のテクストはどこなんだっと探しまくったり。なんで先生は翻訳をわざわざ送ってくださったのだろう、うん?ってなったり。黙り込んだり。

自由な環境だったと思います。あんな環境で勉強していなかったら。ここまでの減薬にはたどり着いてなかっただろうなって思います。
厳しいのは本当に厳しかったですよ。
イギリスって作曲家がいないよねーって言われてムスッとしたりしていました。
わたしがです。
自由といえば自由ですよ。その代わり勤勉さが求められますが。