基本的には再読派です。

新しい小説を読むということは、もう最近はないですね。

どちらかというと古典を読み直すということが少なくないです。

ほかの分野の本も読むんですよ。

美学の文庫本とかも、再読ですが。

若桑みどり先生の『マニエリスム芸術論』を再読しながら、どうして購入することになったんだろうって思ったんです。

図書館でパノフスキーを借りて読んで、通読した後にえっと?と悩んだことがあり。こういうものに簡単に飛びついていいものなんだろうかと逡巡した挙句に、みつけた文庫だったことを思い出しました。

別に先生にパノフスキーを通読してみたんですが、これこれでなんて何も言っていないんですよ(先生は複数形なんです)。

読んでいるひとは周囲に普通にいましたし。

図書館で借りて読んで、きちんと一読して。

門外漢なので補完の役割を果たす文献が欲しかったんですね。鵜呑みにしていいのかわからなかったんです。ある種の勘みたいなものです。古典も古典なんですけれど。

なので、若桑先生のご著書は本当に”just”という感じでした。

先生(複数形)に感想を伝えて、更に怒られたり、呆れられたり、いろいろ言われても嫌だったので、ずーっと沈黙です。怒られるときって辛いんですよ。容赦はないですし、なんでそこまで無能なんだって事実を言葉は違うんですが、突き付けられるので。わたしの専門はここなんですとか伝えても意味がないんです。基礎的な勉強量が足りなさすぎることで怒られるんです。若桑先生のご著書を読んで怒られる可能性は普通にあります。先生が何で読んでないんだって思ってらっしゃる本なら、すでに読了済みというケースもあるので。諸事、むつかしいんです。

沈黙は金、なんです。

急に様々な分野の勉強量なんて伸びないんですけれどね。

それでも、補完として読むには、適切だったように思えます。

図像解釈学なんて門外漢もいいところだったので、パノフスキーだけだとなんだかこころもとなかったんですよ。

真に受けていいんだろうか?って。

なので補完で読むにはとてもよかったです。

注も参考文献も充実です。

注の綿密な本が大好きなので、これくらいの文庫が本当に大好きなんですよ(好みの本は註が綿密な本なんです。註が綿密な書物に外れはすくないですよ。それだけ調べ上げているという証になります)。

では、真に受けるかというと、そこは距離感を取ります。門外漢ならではの距離感です。おそらく、いつでも怒られてきた経験値がそういう姿勢を取らせるのかもしれません。それぞれの著書の視点に学ぶことは本当にあるんですが。相対化して考える姿勢はやはり大事なのではないでしょうか?若桑先生がお書きになっているからすべて鵜呑みにするというのではなく、先生の視点が全面的に正しいのかについては、理解が及ばないので、留保するんです。ただし、学ぶ点は学びます。

あくまでパノフスキーの図像解釈学の補完として、別の視点(視点としても重厚ですけれど)として読みました。

視点って本当にさまざまなんだなって思いますし。

再読して、なおさらそう思いますし。

安易に、一つの文献を真に受けてはいけないなって、やはり、そう思うんです。

パノフスキーも若桑先生の文献もちくま文庫から出ています。パノフスキーは図書館で読んだきりなので、購入して再読しようかなって思っています。若桑先生のご著書はみっしりとしていて、いいですよ。すいません、門外漢ですという感じでしか読んでないですが。マニエリスムについてきちんと理解をすることができます。また、これくらいみっしりしていると読後に本を読んだなという安堵感を感じることができます。だから、新しい本になかなか手が出ないという。時間つぶしにしかならないのだったら、きちんとした読後感のためにきちんとした文庫本を選びます。新プラトン主義はイングランドでは違った表情をみせるのですが。若桑先生はご専門が異なりますし。それにしてもナショナルギャラリーのあの絵画だけで、パノフスキーと若桑先生だと解釈がここまで異なるんだというのを、再読して、再確認をしました。美学の専門のみなさんは大変ですね。それにしても、若桑先生が網羅されるあの文献の量はすさまじいですよね。参考文献なんだから、これくらいのボリュームは当然でしょうという。そういえば、授業のときに、先生がホワイトボードにさらさらーと、とある画家の筆致を再現したときに、先生すごーい、うまいですねーって感想を伝えたんですよ。先生に、だって練習したんだもんって即答されて。へぇーってなってました。驚いたんです。

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