まずは、相手をきちんと信頼したうえで根拠を示すことです。
反射的に言う”NO”に関しては、文脈を伴なわない “NOという姿勢を取りたいためだけ”の”NO”と相手にも受け止められかねないですし。それは単純に”好悪”というどうでもいい感情に収斂されていきます。
それでは、議論にはなりません。
どうしてこんなことが起こっているんだろうと、こちらが調べる姿勢も大事になるんですよ。
例を出しますね。
私は、個人的には東京五輪に対しては”against”なんです。では、オリンピックのすべてを否定したいかというと、その点に関しては”No”なんです。

最近だと、韓国で冬の五輪が開催されましたよね。ピョンチャン五輪です。当時は毎日が楽しかったんです。もれなく、私もカーリングに夢中になりましたよ。
いつものように、アルペンを楽しみにしたり、クロカンを一生懸命観てました。子供の時から、アルペンとクロカンを一貫して楽しんでます。楽しかったんです。時差もほとんどなかったので。
五輪は五輪の良さがやっぱりあります。
ただ、今回の東京五輪に関しては、Covid-19の状況を鑑みて、やはり中止をするべきだと思います。
スポーツって健康があって成り立つものでもありますし。そこの議論が本末転倒した時点でやるべきではないなって思ったのです。
IOCは夏と冬の五輪の采配をする組織なんです。

今回のような議論は、いずれ必要だったのかもしれません。
ロンドン五輪の後にも五輪の残骸がたくさん残っています。五輪のための高層建築の残骸から、イングランドのリーグをのんびり見ているひとなんか、たまにいますよ。カメラがきちんと捉えてしまい、解説者のひとを「いい場所みつけましたねぇー」って笑顔にしていたりもします。
ただ、冷静に考えると、その建物からスタジアム内を観たところで選手はものすごく小さくしか見えないので、そのひとは、案外別の景色をみてのんびりしてらっしゃる確率の方が高いのです。
イングランドのリーグを放送しているスタッフからすると、その想像力までが足りなくって、あ、あそこから無料でこの試合を観てるんだなぁーという決めつけが先行しているだけだったのかもしれません。
そうなんです。物事っていつでも両義的なんですよ。
”NO”の声がバッシングになるようではダメなんです。批判が正義ではありませんから。要するに、この状況でなんで?というときに整合性のある理由が見つからない場合、やはり、IOCは自らの組織の成り立ちや五輪のあり方を根本的に見直すべきだとは思います。
もちろん、FIFAのワールドカップでも巨額のお金は動くんですよ。ただし、FIFAの組織って一元化はされていないんです。世界にあるサッカーの予選地域に各地域を仕切るサッカーの議論の場所を必ず設けています。
欧州だとUEFAで、南米だとCONMBOLです。サッカー自体は南米の方が歴史が古いのです。FIFAの会長のわがままはCONMEBOLに通用はしませんし。南米選手権になると欧州で活躍する選手は普通に母国に帰って試合にでます。所属チームが文句を言おうが南米の試合にでます。FIFAがわがままを通そうとすると、UEFAはその手前で自粛を促し、FIFAがわがままを通そうとするときには、欧州委員会並みに怒ります。

サッカーに政治を持ち込むことは禁忌なのですが。UEFAは欧州管轄で人権意識も強い組織なのでイングランドのリーグで行われる、選手ひとりひとりの “Black lives matter”の活動は黙認しています。
議論が起こりそうな時に、それを封じ込めるのではなく、議論を議論として受け止める姿勢がFIFAにはあるんです。
その代わり、FIFA管轄になるとそれなりの厳しいルールが敷かれますけれどね。
IOCにも、議論は必要なんじゃないでしょうか?
反対のための反対ではあまり意味はありません。ただし、考えるだけ考えて、これはおかしいというときには、きちんとそういう気持ちを持ったり、疑問を呈する姿勢は大事になります。要するに自分の利益だけを考えるのか、その手前で普遍的な利益についてどうなんだろうか?この場合はちょっとなぁーって立ち止まることが大事になるんです。疑問が重なった時にはその理由を探していきましょう。どう考えても、おかしいとなったら、おかしいと言わないといけません。流れに流される前に自分で考える思考力が大事になります。
 
																								 
																								