最近の学究なんて。興味をひくものがないのでしょうがないんです。
ある程度、勉強しつくしていると、その視点は誤読だと思うというのには気づいてしまいます。
文学も哲学もある程度鍛えられています。
私がいた勉強の庭で、哲学なんて、私は素人ですよと言及した場合は、叱られるんですよ。
叱られたことあるからです。

大抵の古典って読んでいるはずなんですが、基本の古典文学です(といいつつ、読み落としも少なくありませんが)。
読了できなかった本があるんです。
これです。

ジャン・ジュネ、朝吹三吉/訳 『泥棒日記』 | 新潮社 (shinchosha.co.jp)
子供の時には、文庫を出版社別に順番に読んでいくような子供だったのですが。
この本は無理でした。
読んでいて、途中で気分が悪くなり、買ったんだから読まなきゃと思いながら、気分が悪くなり。
読了できなかったんです。ドストエフスキーとかなら、軽く読んでしまう子供だったのに。
先生に、ジュネは無理でした。気持ち悪かったんですよーっというと。
あれくらい読めなくてどうするのっと怒られるんですよ。
生理的に無理なのに。
そんな甘いことではダメって叱られるんです。
やってられません。

サドとマゾッホももれなくダメです。本を手に取ったことさえないんです。『悪徳の栄え』は手に取ったことがないんです。絶対、読んでいるうちに気持ち悪くなるんだろうなというのは容易に予想がつきます。
先生、どっちも無理ですと訴えると、本当に指導として叱られるんです。
あれくらい読みこなせなくってどうするつもりなんだ、無教養な奴めという感じで、叱られます。
ただし、講義で先生から、サディズムとマゾヒズムは相補関係にあるというと教えは受けているんです。先生が間違ったことは学生に教えないですからね。
私自身が読書で悩みつくしたものに対して、全然、別方向から、歴史的な背景を取り落として誤読しているものに触れると、学究のレベルって本格的に下がりだしたんだなぁーと思うんです。
いまの学生さんが、間違った教育を受けている可能性はあるみたいです。
学生さんの責任ではなく、教育者の責任になります。
お気の毒だと思っています。
間違ったことを正解だと学ぶのは、気の毒ですよ。
数年前にウルフを読み直していた時に、あ、この描写って、多分数学の概念だと思う。当時の。誰だっけと悩み、地元の図書館群が遠いので、見つけ出せず、たまに思い出しては、うーん、なんだっけとなっています。描写は文学なんですよ。椅子とか出てくるんです、反復して描写されるんですが。当時の数学の概念の描写だと思うんです。図書館がないって辛いですよ。図書館はあるんですが、レベルが低いんです。自殺をしてしまったり、心を病んでいたりしたので、また、女性と恋をしたりしたので、そこばかり過剰に取り上げられることが少なくないんですが。実人生に引っ張られると書かれた小説を誤読してしまうという小説家の典型のようなひとです。小説を読みながら、母をモデルにしながら、そこに自分を重ねているのは間違いないので、これは辛いわーとナイーヴに再読していました。第2章の変調が好きなんですよ。急に文体が変調していきます。第1章と第3章を架橋する部分なので、遠景していく作業になるんですが。あの部分は大好きですね。