スポーツとeスポーツの違いは明白なのです。

“Sport” は元々「気晴らし」や「娯楽」といった意味がイングランドの言葉にはあります。主に貴族階級の「気晴らし」や「娯楽」です。馬を駆って狩猟犬を走らせて狩りをするのが”sport”なのです。

そんなことしていると、動物愛護団体から怒られるので、2000年代くらいの貴族階級は、すべてをシステマティックにしていました。その風景を再現している映画を観たことがあります。狩猟相手は鳥になります。わざわざ、いろんな事前の作業と安全確認を行ったうえで、鉄砲で鳥を(食料になる鳥です)を撃つんです。

そこまで頑張るのかって思いましたが。

現代では”sport”は、運動、スポーツの意味で言葉として運用されることがほとんどです。

では、スポーツとeスポーツの違いは何でしょうか?

スポーツは脳と体を同時に動かします。eスポーツで動かすのは脳と体の部位では聴覚、視覚、手元だけです。体全体の運動効果はまったく得られません。

筑波大学って一応国立なんです。そして、旧統一教会との深い繋がりでも有名なんです。旧統一教会は韓国のカルト集団です。

運動分野の研究は先端的なのですよ。以前、NHKのニュースで驚いたのですが、オリンピック競技を行う選手自身が研究者の卵なのです。その競技をする自分の体の動きを、多分、体にマーカーをかなりつけたんだと思いますが、コンピューター上で可視化して、より客観的に自分を研究対象にしながら、競技を行う上での精度を高めて、課程博士の学位を取るそうです。

効率的ではありますよね。

筑波大学でスポーツ科学の研究を調べていくと、この形式(もう様式美だと思います)は汎化されているようなのです。

楽な時代になったよなーって思います。

ここまでならば、筑波大の存続意義もあるなと理解できるのですが。

だんだん、怪しくもなっているそうです。

茨城県と筑波大学とNTT東日本とNTT e-Sportsという地方自治体、通信インフラ会社と国立大学が共同で、e スポーツを学問にするそうです。

NTT e-Sportsって何って思いました?私もそうです。スポーツよりもなんだかイベント会社に近いようなんです。

食べながら、飲みながらってもうスポーツではないですよね。

プロフェッショナルのスポーツになると、栄養学は必須になりますが。レクリエーションのための栄養摂取という感じではなくなりますし、欧州で活躍する、しかも選手寿命の長い選手ほど、口にするものの管理は徹底されています。C.ロナウド選手はアルコールは一切摂取しないのですよ。

eスポーツって簡単に言えば、通信インフラを使った複数人で行うゲームです。私がやったこともない、ウイニングイレブンなどが当てはまるようです。ウイニングイレブンやっていて、サッカー選手としてプレーの精度が上がるかについては、疑問しか持ち合わせませんが。

複数人でやるゲームをスポーツという概念でとらえること自体無理があると思います。産学官連携協定で行われる施策で、実際に役に立つものなんて少ないとは思いますが。

学問として100年後生き残るための制度設計を個人的に考えてみました。

eスポーツを「娯楽」として分野を分けて研究対象にすることなら出来そうです。所謂、一般的なスポーツと分けて考えます。

オンラインゲームという響きにマイナスのイメージが付きまとうのであれば、eスポーツと「名づけ」の行為でまとめてしまえばいいのかもしれません。

要するに「オンラインゲーム」のための脳科学、「オンラインゲーム」のための栄養学、「オンラインゲーム」のための睡眠学、「オンラインゲーム」のための生理学とすると、100年後でも学域として辛うじて、学域の端っこで生き残ることができる可能性はあるのかもしれません。

physiology、生理学を付与することによって、健康被害の実例を検証することは当然できます。

neuroscience、脳科学を付与することによって、認知症の危険性や体を動かさないことによる脳の老化も調べることができると思います。

nutrition、栄養学を加えることによって、長時間のオンラインゲームの中毒症状に似た状況で、基本的な栄養学によってその状態を改善できる方法は模索できると思います。

端的に言えば、生活習慣病の予防学のようなものになります。

スポーツ哲学に関してはその存在自体が成立困難なのです。哲学ってそんなに浅はかな学術分野ではありませんよ。

スポーツ哲学の実存主義とか、スポーツ哲学の否定神学とか、言葉として成立困難ですし、そもそも破綻しています。

学問というよりも、虐待行為に近くなる可能性は否めません。

ICT技術の為に、子供たちの運動の機会を奪ったうえで、オンラインゲーム中毒を子供たちの体に要請した上で、その行為で金銭を稼がせるというアイディア自体、健康的ではないと思います。虐待には近づきますけれどね。

筑波大学って根本的な視点を誤っていますよね。

私が受けた教育のレベルは先生方にも恵まれたおかげで、現代哲学の分野だったら筑波大学のレベルは軽く凌駕できますよ。だって筑波大学の学長の専門分野は分子生理学でしょ?哲学に対する基本的な知識があればこんな愚かな施策に許可ださないと思います。そもそも。また、筑波大学の学長が言及している「師魂理才」という言葉の出典元がわからないので言葉の意味はわかりません。すみません。関西の学究では師は超えられない壁という事実を言葉ではなく体感で学ぶことになります。筑波大の学究としての成り立ちって大丈夫なのでしょうか?出典元の文脈の前後はどうなっているのでしょうか?知りません。士魂商才なら知ってますけれど。これは「和魂漢才」から出来た、実は造語なのです。

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