どんな本でもいいというわけでは全くないんです。
やはり、好きな本を読みたいなって思いますし。なんとか本を読む体力を復活できるようにと、それに関しては毎日願っています。現実はむつかしいんですが。
本を読むときはかなり集中して読むので。力がいるんですよ。早く気力が復活しないかな?って思います。
再読は楽なんですが。新しく本を買って読むというときに、本当に骨がおれるというか。
体のなかの睡眠薬の薬価を減らすということは、それだけ体力がそがれることなんです、実際に。

それでも本を開いて、読もうとするんですね。
日本語の本でもそうですし、英語の本でもそうなんです。
がりがりというドライヴの感じがでないので、粛々と読んでいます。何度手間になったとしても(本を開いて読み終わるまで一気に読んでしまう体力がないんですよ)。
しょうがないときもあります。
こういう風に、いつものように読めたら楽なのになって思ったりもします。
気力がないってむつかしいなって思います。
健康を回復する途上なので。人間の本能が奪われてそれを回復させている途中なので。
いろんなむつかしさがあります。

どうせだったら、丹念に読もうって思います。
テクストか、日本の文芸か、学術書かみたいな本しかもってないのですが。
メルロ=ポンティの文庫を買ったときに、なんでこういう雑然としたものが文庫で、『目と精神』とか文庫にならないんだろうって、結構悩んだんです。
メルロ=ポンティを雑然とさせるための文庫化って意味があるのかな?とか。
ドゥルーズなんか主著が文庫なのに。
この扱いの差はなんなろうだろうとか。
坊ちゃん気質は文庫になって、たおやかなメルロ=ポンティはなぜダメなんだろうとか。
構造から逸脱していくものついての嗅覚があるわけでもない、モデルへの偏愛にみちている坊ちゃん気質のドゥルーズは文庫になって。
いろんな機能を横断していく、しかも、軽やかにすいすいと横断していくメルロ=ポンティはなぜ主著が文庫にならないんだろうって。
なんの差別なんだろうって思っています。
もう、差別ですよ。ひどいですよ。
なんの差別なんでしょうね。
文庫になるべき本ってたくさんあるはずなのに。これが文庫になるなんてって騒ぐ必要性なんてないんですよ。どの文学にしていも。文庫にしないと生き延びるのがむつかしいのなら、文庫になってしまえばいいんですよ。手に届きやすいでしょ?