大人になるということは。

そうですね。端的に言えば、自他の区別がつくようになるという事です。

自分は自分でしかなく、他人は他人でしかないという当たり前の考えをもつことです。日本人はどうしても、自我の発達が弱いという指摘があるのです。日本の文化人でその指摘をなさったひとがいます。

むかーしの著述家に伊丹十三さんという方がいます。私は伊丹さんの翻訳したサローヤンの『パパ・ユーア・クレイジー』が大好きなのですが。実はこの文庫はもう新潮文庫ですら、重版をかけないそうです。

村上春樹さんと柴田元幸先生がアメリカ文学の文庫版の翻訳を出していくシリーズのなかで、いわゆる《村上柴田翻訳堂》シリーズのなかでまさか淘汰されたわけではないでしょうね?という作品なのですが。

図書館にすらないという確率もあります。

伊丹さんがこの本を翻訳するにあたって大事になさったことがあるそうです。英語(だけではないですが)だと「わたし」や「あなた」という主語がないと文章、そして発話でさえ成立しないのです。一方、日本語という言葉は、この「主語」をやり過ごして会話ができてしまいます。

父と息子の物語なのに、「お父さん」または「おとん」あるいは「パパ」、「お前」または「〇〇君」あるいは「〇〇」といった呼び名がなく、単なる”I” と”YOU” です。

なので、そこを重視して(つまり翻訳としての滑らかさは一応棚上げにした形で)翻訳をすることを大事になさったそうです。

私はこの文庫をとっても大事に保存しています(2冊買っておけばよかったと今では思っています)。

親と子供なんですけれど。

そうか、「わたし」と「あなた」があるだけで違うもんなんだぁーと当時思ったことがプラスに働いています。

実際、英語運用をしていて「わたし」と「あなた」の違いをそれほど意識することは正直ないのですが。

ただ、伊丹さんの翻訳できちんと読んでおいたというのは、ためになっています。

翻訳としての技術としては違うのかもしれませんが。ただ、伊丹さんのこの翻訳に触れる機会があったのは、本当に大事だったなって思っています。

家族でさえ、所有の対象ではなく、大事にしなければいけない相手であり。その距離感はむつかしくもあり、でも大事なことでもあると学んだからです。

なので、家族じゃない他人なら、なおさらだなと思うのです。

本を読むということにさえ、情報が共有できない時代が現代でもあります。過去にもそんなことたくさんあったんだろうなって思ってます。

じゃあ現代の日本文学(?)を読むかと問われると、読む気はさらさらないので。それはしょうがありません。サローヤンはアメリカ文学で1930年代あたりを専門とする人で移民をテーマとした文学を扱う人は多分読むのかもしれません。いい作家なんですよ。アルメニアという国からアメリカに移住をしたのだそうです。

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