私も最初は敷居が高かったはずなんですよ。1回生のときに哲学の講義が開かれていて、授業を取ろうかどうしようかと悩むことができる2週間の期間中に受講したことすらあります。
哲学って西洋哲学史のことじゃないの?
アリストテレスとかじゃないの?

そこまでの私の哲学の知識なんて貧相なものでした。セネカの『人生の短さについて 他二篇』を読了して、セネカってなんて心の狭い人なんだと憤ってしまうナイーヴさだったんですよ。
そんな感じでした。
そして、その講義を受講したかというと、なにかちょっと違うような気がするという理由だけで受講しなかったんです。
惜しいことを本当にしました。
後で考えると、講義を担当していた先生は、実は京都学派の先生で、西田哲学の専門の先生だったんです。なんで講義を受けておかなかったんだろうーっと後になって悔やみました。
悔やむ頃には進学していましたし、先生は別の学校に移ってらっしゃったので。
諦めざるを得ません。
なんて、無知だったんだろうと思いますよ。

そして、哲学で、実際に講義を受けたのは古代ギリシャ語の専門の先生でした。
先生は、学校でギリシャ語を教えることについては、とっくのとうに諦めてらっしゃるご様子でした。お優しい先生なのですが。講義の内容はギリシャ神話になるのです。先生は、岩波文庫でいいよー、図書館にもあるし、日本語で全く構わないよとおっしゃってくださったのです。
古代ギリシャ語の専門の先生の講義を岩波文庫を片手にしながら講義を受けるという、まぁ、学生側の能力がないとそうなってしまうんですよ。
先生が接してらっしゃるのは古代ギリシャ語のテクストになります。お話を聞くと、日本語の翻訳と原文では乖離があるそうなんです。岩波文庫なのに。先生曰く、日本語で言うとなんていったらいいのかなぁー、英語だとねー、誰か英語が出来る人はいないかなぁーと問いかけられるのですが。
英語の専門の学部があろうがなかろうが、大前提が、古代ギリシャ語だと、学生が束でかかったとしても無理なので、参加している学生は恐れおののいて静まり返るしか手がないんです。

中途半端な発言をして、余計に先生を苦しめるだけになったら、どうしよう。
そういう沈黙で埋め尽くされるなかで、先生は一生懸命、僕が読んだのは古代ギリシャ語のテクストで、日本語訳に関しては、研究者のなかでも異論もあってねーと教えていただくと、参加している学生からすると、更に沈黙を選び取るしか方途がないのです。方途なんて、最初からないも同然ですが。
英語で下手な説明なんてむりやんかーっです。古代ギリシャ語と対にできるような英語の能力を持っている学生なんて、うちにはいないーっです。でしゃばっても先生を困らせるだけです。
沈黙でしか応えられない不甲斐ない学生の固まりを前にしている先生を。
授業中、僕は、英語は専門じゃないんだけれど、古代ギリシャ語について、そのまま日本語に置き換えるとむつかしくなってしまうんだよねー、この部分は。という箇所についての解釈を、懸命に無知蒙昧な学生の集団に伝えようと先生は努力をなさっておられました。
古代ギリシャ語はね、研究者が読むものだから、別に学ぶ必要性はないんだよっと、丁稚奉公の入り口でむなしい宣言を受け止めることにもなりました。現代のギリシャ語でも、格変化するから、古代ギリシャ語なんて勉強する必要はないよって言われたのです。
先生が何度も、岩波文庫で十分だよとおっしゃってくださったのを勇気の糧として。
岩波文庫でしか読んでいません。

そして、文学なんて学んでいると文学批評が立ちはだかるわけなんです。
あんなものは飛び道具だから、使ってはいけません。きちんとテクスト読みなさい、文学批評については自分で学びなさいというかなり厳しい場所にいたのです。先生方の統一した見解であり、異論は赦しませんという場所だったのです。そして、誰も教えてくれないので、勉強するしかないのです。
数年しか在籍しなかった先生が、ここは文学批評を教えるとダメな感じだけど、それでも、文学批評について無知だと、どこに行っても恥をかくだけだから、Aという本を読んでわからない場合は、Bという本を読んで、それが理解できない時はCという本を読みなさいと、懇切丁寧に指導をしてくださったのです。
講義ではシェイクスピアと同時代の劇作家のテクストを精読し、そのうえで(慣れない中英語です)、論文を何本か渡されて、講義までにまとめて発表をするという内容でした。
入学したてのペーペーなのに、さまざまな重厚感のある講義が群れになって、のしかかってくる感じです。自分の勉強もしなくてはいけません。
いい先生に恵まれたなと、それはいまでも思います。ただし、その先生がいらっしゃらなかったら路頭に迷っていたのは確かなので。

感謝しています。基礎の勉強の糸口になったのです。
いま振り返ると、短期間にかなりの勉強量だったと思います。
基本的に、スパルタンな教育しか受けていません。
そして、いろんな国の文学に詳しく、哲学に関してはフランス現代批評どころじゃない、なんでも知っているという射程の先生がいたので、その先生の教育方針(?)の下で更に勉強をすることになるんです。
先生に、この本読んでるんですけれど、むつかしいですねと伝えると、そんな、ど真ん中から読むんじゃなくって、ここから読むといいよと、手順を教えてくださるんです。
後は読書量が増えていく一方なのですよ。あれも読まなければ、これも読まなければです。英語文献でも増えていってしんどいのに、日本語の文献が倍速で増えていきます。
先生がうちに赴任した経緯を教えていただいたり、X先生のご紹介だったんだ。え?X先生。ベケットの翻訳の先生だろうか?それとも、ドゥルーズ=ガタリの翻訳の先生かな?X先生がうちに赴任されておられたのであれば著書はあるはずで、ふたりのX先生は同一人物なんだろうか?
そんなの私にわかるわけがないし。
もう、自分の先生に聞こう、そっちの方が話がはやいはずと質問に行くついでに質問すると。
X先生はZ先生と仲がいいんだよ、だからベケットを翻訳したんじゃないのかな。うちにいたよ。Xさんはねーと、いろんなよもやま話を聞かせていただきました。
どうして、そんなすごい先生方がうちみたいな地味な学校にいたんだろうと、なんて不思議な偶然なんだろうと思ったりもしました。正直、なんでだろうと今でも思うことがあります。
つまり、私がいた当時でも、指導を受ける学生の力量なんて木っ端みじんに砕け散るようなレベルの先生方で埋め尽くされていたので、すくすくと育つしかないわけですよ。

エウリュステウスの奴隷になったヘラクレスも真っ青ですよ。
こっちは先生が難問とは思っていない、学生としては難問としか思えない状況を乗り越えていくしかないのですが。
よく、頑張ったなぁーって思いますよ。
先生だけには恵まれていました。先生方は私より私に詳しく、私は素直に勉強するしかなかったわけです。別の分野の先輩に先輩の専門分野ってなんですか?って聞くと大体の先輩が、うーん、説明してもわからないと思う、ちょっとねーというところを、教えてもらうと全くわからないという専門分野の研究をなさっていたりするので。私は、なんでこう、出来がわるいんだろう、しょうがないなぁー、それに関しては今更どうにもならないっと開き直るしかないわけですよ。急に、頭なんて、よくなりませんからね。