音楽でも映画でもいいんですが。メディアが多孔化したことによって、新しい作品の強力なライバルとして過去の作品群が浮上していくんだろうな、とも思います(いままでだって、そうだったんですよ)。
わたしが子供の頃でも、新しいものって生まれにくい状況だったんです。
ファッションでもそうですよ、70~90年代の焼き直しに次ぐ焼き直しで。新しいものなんて何?という。いつでも、過去の焼き直しで流行が形成されていました。現在では洋服は個性の時代ですし。日本で流行だと囁かれているものは、たいてい日本の服飾業界の捏造になります。15年くらいずっと捏造です。
欧州の流行(?)との乖離も甚だしいのが実情です。なので、それぞれで個性を大事にして大丈夫なんですよ。
実際に、新しいものが生み出されるには過去の咀嚼と消化が必要なんでしょうが。
現代だと未来に向かっていく現在進行形のいまと、過去の大量の文献、映像、音楽などが共存している状態ですよね。
常に並行して存在しています。そして、いまある現在を侵食しているんです。過去を乗り越えられていないという現在の連続なのかもしれません。
過去は乗り越えられるべき時間になるのでしょうか?
乗り越えられない過去の膨大な時間に対して負けがこんでいるままの現在なのでしょうか?

そして、私が子供のころから大人も大人な現在に至るまで、常に過去に拮抗できないという状況が続いているような気もします。
ファッションで流行はくるくると巡って過去が再構築されるというのはよく言及されることですが。
要するに新しいものが作り出せなくなって、長い時間が経過しているとも言えます。
ずっと過去の再生産のなかで生きていることになるのでしょうか?
新しいって何だろう?ですよ。
”Ongoing”のはずのいまなのに。必要なものとして取り込んでいる情報の大半は過去のものだったりもします。
映画は特にそうでしたね。
あの映画を観ていないなんてっ、このタイトルだったら、あの映画じゃなくってこの映画に決まってるでしょ?とか散々怒られてきましたから。
尊敬している先生の論考のようなエッセイを読みながら、書かれている映画のタイトルを読みながら、え?その映画をわたしは観ていない、探しても観ることができない、どうしようという状態でしたから。
当時でもすでにそうだったんですよ。
情報の格差なんていたるところにありますよね。

追い詰められて高騰していたDVDを購入したりということもありました。結局、blu-rayも購入したくらいです。
英語ができるので、Youtube.comで挙がっている映像を観ることができる現在は幸運だなとも思います。
そうなんです。Youtube.comで映像が挙がるので、観るべき映像っていまのほうが増えているはずなんです。
わたしが観ないことにしているゴダール監督作品の短編なんて結構な数が挙がってますからね。
決めたことなので観ませんが。
気がつくと常に過去が侵食してくる現在を生きているんですよ。
常にそうなんです。
慣れているのでそれでも大丈夫なんですが。

とても遠い過去から、少し身近かもという過去から、常に過去の浸食を受けながら、いまを生きているというのも不思議ですよね。
Footballを観ることができないので、現状、情報としての”ongoing”の現在とのつながりって薄いです。音楽は聴くようにしてますが。報道以外の文化面は本当に弱いんです。
映画も長編映画を観る気力がないので。
現代美術の貧困な田舎に住んでいる分、絵画を直接観る機会すら減っていますし。
新しい小説や文献は読んでいないに等しいですし。中身がないものに時間は割きたくもないですしね。
読了後に過去に読んだ作品群との共通項とか思い浮かべて、くだらないなって思いたくもないじゃないですか。大体、その時間が無駄になります。
似たような論考を繰り返し読むとか嫌ですし。どこにオリジナリティがあるのか考える時間を作った場合、その発想に至った段階で、読了するまでの不毛な時間にどこか価値を見出そうと必死になっている自分を振り返ることになると思うと。
残念な気持ちにしかなりませんし。自分に苛立つ時間には意味がないです。
誤魔化しようがないですし。
つまらないものを消化しないといけない時間は不毛ですよ。
そうすると、どうしても過去の浸食のうえに現在があるみたいな時間を延々と過ごすことになるんです。
考えるととても奇妙なんですけれどね。しょうがないのかもしれません。