英語だと、”introduction”なので、なかに導いきれるという含意が言葉自体にあるんだと思います。
日本語だと、「入門書」になるので、学ぶ先の玄関先に立って、おたのもうしますと頼む感じなんですよね。
語感って、言語によってまったく違います。
イングランドの詩に関しては、入門書を漁りまくって、手持ちの本もあります。
アンソロジーなんですが。
英文学なので、現代思想とまったく異なり、安定感があるんですよ。

わたしは現代哲学などの入門書をいくつかもっていますが。なぜ、そこからそこの跳躍なんですか?どうして、そのひとのその言説のあとに、あのひとの言説なんですか?
間で欠けているのは誰なんですか?なんで間が埋まってないんですか?
理由はあるんですか?どんな理由なんでしょうか?
という状態だったりもします。
イギリス文学だとそういったことがないんです。分量的に省かれるマイナーな詩人とかもあるんですが。それぞれの先生方が担当なさる分量はコンパクトなのに、きちんと内容がまとまっています。
ただ、当時私がほしかったのは、韻律法と詩型の説明だったんですね。
基本的に決まった押韻形式というのがあります(”rhyme scheme”です)、それが連(”stanza”です)と有機的に結びついて、詩というのが書かれる時代があるんです。
17世紀に完成されるんですが。
ルールがとっても厳密で解釈のむつかしい詩から、シェイクスピアのソネットのような形式まで多彩なんですよ。
イギリスの詩自体は古い歴史をもっていて、古いとわたしのような勉強不足のひとには読むことすらできないという詩まであります(古英語と中英語から逃げたんですよっ)。
途中で途絶えるようで、途絶えることなく19世紀まで詩の型は残るんですね。
もっと大きな枠組みで読解する頌歌(”Ode”です。時代によってはかなり複雑な展開になります)もあれば、別に高邁な大学才人でも何でもない、普通の人々によって伝い継がれるバラッド(”ballad”です)、スコットランドのバラッドが有名です。むつかしいんですよ。イングランドと言葉の生成が違うからなんです。

当時のわたしは、専門領域に踏み込む手前の学生で、ルールがわからへんから、ルールを教えてほしい、ルールがわかったら、きっと読めるはずという「浅学菲才」という言葉を文字通り背中に背負っている状態の学生だったので。
へりくだるってなんやねん、ルールブックがほしいねやんかっという勘違いの塊だったので。
今考えると、姿勢が間違ったなりに、きちんとした専門書を選んで買ったんだって思っています。
どれだけ生意気ぶっても、図書館の本の良書の選択の手前では、負けが込むんですよ。
負けてる状態が正しいんですよ。
後々、視野が開けて英語の詩の専門書を図書館で読んで、わたしはなんて愚かだったんだろう。こんなむつかしい規則の詩は単独で読解できるはずないっという現実を知って、うなだれたりするんですよ。どんな分野でもそんなものですよね、違いますか?わたしは間違っていますか?誤表記が多いのは知っています。ごめんなさい、反省しています。本当なんですよ。