読書の作法。

ドゥルーズを読んでいますが。

はじめて読むわけではないのです。ドゥルーズの論考の手続きのありかたに不信感があるだけなんです。フランス哲学の思潮だから全肯定というナイーヴな読者ではまったくないんです。全肯定だとこちら側に思考能力がないみたいになるでしょ?

ただし、一から十まで、全部が不信感の塊という姿勢で読んでいるわけではないんですよ。

ドゥルーズが試みる手続きのありかたについて、理解をしようと思いながら読んでいるので。

ただ、ドゥルーズの言説がすべて正義なんだというナイーヴさからは距離をとります。

英文学なんですが。テクストを読み解く際にテクストを十全の正義が満ちていると考えて、読み解くことはまずないです。ありえないんです。小説という構築物を読み解くには、細部が大事になりますし。輻輳しているものはなんだろうという視点も必要ですし。混み入っているように読める箇所もあれば、込み入っていない場所で同じような描写が繰り返されることもありますし。

文学が書かれるあり方が多種多様になるので。

繰り返し読みながら、こちらの姿勢をまとめていく感じです。

正しいって思いながら、テクストを読まないのは確かです。

語り手がこちらを混乱させることもあるので。距離感の見定めって大事なんですよ。信頼できない語り手である場合も実際にあります。

ドゥルーズは大学人でもありますし、教育者としての親切心はあるんですよ。スピノザの生涯をまとめていたりもするでしょ?

17世紀のオランダに出かけていって、こういう状況だったの、スピノザはって読者に伝えてくれるじゃないですか?

そういうときは留保をつける姿勢は固持しながらも、素直に読んでいくんですよ。

素直なんです。

理解するためなので。

翻訳者がどの先生になろうが、ドゥルーズの口吻であることには間違いはなく。

力強い筆致で、すーっと横にずれていくんですよ。

スピノザが自身のうえに招聘している身体性については、オランダのひとたちの感覚のはずなんです。17世紀のアムステルダムです。スピノザの立体性を説明するために、17世紀のアムステルダムやその近郊に思いを馳せているはずのドゥルーズはいつの間にかすんなりとパリに戻ってきてフランス人の感覚で、スピノザを同定しだすんですね。

また、フランス人ならではの感性も入るので。それはフランス人だからしょうがないんですが。

ドゥルーズのスピノザ像からは、スピノザなりの正義感だったりというのは浮き上がっては沈んでいくでしょ?スピノザが自然を規範の枠組みからそっと脱構築していく様とかには頓着しないんですね。スピノザが周到にあつらえる「民主制」にまったくかかわずらってないんですよ。ドゥルーズは。

そこでなぜ悩まないんだろうという個所を故意にスキップしているのではないんだろうか?と思うほどです。

残酷なまでに、固執しているようにも見える方向からのみスピノザを概観するんです。

スピノザの視点をドゥルーズ自身のアイディアにぐいっと近づけすぎるので、対象と距離感がとれていないんですね。

ドゥルーズのありようなので仕方ないんだなって思っています。

結構真面目に読んでいるんですよ、これでも。

わかったふりはダメですという教育環境のなせる業ですよ。わかったふりは無理です。これをやると怒られてしまうという刷り込まれた倫理観のようなものなんです。厳しすぎたからです。

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