子供の時に言ったことありますか?みんなが持ってるから、わたしも欲しいとか、なんとかかんとか。
覚えていないんですが。
同調圧力に負けていたことはありました。
みんなと一緒だから安心感を得られるという感覚は、ある意味、自分を無意識に安心させたい「捏造」みたいなものなんだろうなとは思います。保障を捏造しているんだろうなと。
好きな音楽でも、勉強でも、みんなという存在がいるのかというと、一時的な存在なんです。きっと。
世の中はひろいからわたしが好きな音楽を好きな人もいるのかもしれない、わたしが好んで読む文献を、誰かがどこかで偶然に手に取って、お互いの存在なんてまったく気づくこともなく、同じ文献を読んでほくほくとしているのかもしれない、だってお互いの存在の認知はないですし。Social mediaがあったとしても誤認していたり。自分に都合がいいように相手を能動的に誤認識することはあると思います。
そして、自分の好都合から認識している目前にみえているはずの、その「みんな」は存在しないという現実があります。
みんなを意識するときに、ひとは自分のなにを懸命に守ろうとしているのでしょうね?
まもる価値があるものなのでしょうか?
実は、子供のときに負けてしまった同調圧力でいまだに反省しているものがあります。
友達とお花見がしたいねという話になり。
お花見がよくわかっていなかったわたしが質問をすると、桜の下で豪勢なお弁当を食べるという一大イベントだと教えてくれたんです。その友達は。
実際にそうだったんですが。

そして、家族がお花見に連れて行ってくれたんですね。
わたしは小さな子供で、きっと豪勢なお弁当がと思っていたら、家族がもってきたのは、フルーツだったんです。
柑橘系のフルーツやバナナやリンゴをもってきていて、お茶と一緒に楽しむというお花見だったんです。
小さな子供はきょとんとしてしまい。
おそるおそる周囲を見渡すと、豪勢なお弁当をはべらせて、酒盛りでわいている大人が群れをなしていたんです。
友達もちいさな子供なので、お酒に酔っ払った大人の群れに囲まれるという情報はきっと知らなかったのかもしれません。
ちいさな敷物を敷いて、フルーツとお茶を楽しむ家族のなかで、なにがお花見の正しい在り方なのかよくわからなくなり。
縮こまってしまったことがあったんです。
いま考えると素敵なお花見なんですが。
そういう記憶があるので。
みんなって案外、自分の偏った欲求が生み出してる幻影なんだなって早い段階から気づいていました。
捏造の中での安心感というのは、個人的には興味がないので。
そこまでして自分をたぶらかしたいとは思わないんです。
「みんな」って結局バラバラなので。それでいいって思っています。