数年来の傑作。

アンダーソン監督作品については、ここ数年本当に消化不良になっていて。

映画を観るときって映画そのものを観るでしょ?

なのに、毎回、映画の構図やストーリーが枠組みとしての役割を担うことによって主題が散逸してしまうショットの連続にうなだれたり。映画を観るうえでどうして雑音の混入する余地がこんなにも生まれるものなんだろう?と。ずっと映画のサイズだったり、展開だったり、映画の中の細部よりも、映画の構図ばかりに注意を奪われていて、つまらなかったんです。

折衷されたどっちつかずの中途半端なものは不得意で。

わたしはThe Grand Budapest Hotel (2014) については手放しなんです。

そして、万全を期しているかどうかはよくわからないんですが。新作をやっと観ました。

The Phoenician Scheme (2025) です

ポスターには珍しく謳い文句が掲げられていて。”If something gets in your way, FLATTEN IT.”なんだそうです。「何かが妨げになるのなら、ぺしゃんこにしてしまいなさい」ということになります。

この作品は真骨頂だと思います。新たなアンダーソン監督作品の真骨頂なんだと思います。

映画音楽も映画音楽然としていて、音楽が映像作品を観るうえでの雑音になることもなく。キャスティングされている俳優の皆さんは完ぺきで。本当に完ぺきでした。

ストーリーを通してのテーマは台詞にも出てきますが、おそらく”Family Business”なのかもしれません。”Zsa-Zsa” Kordaさんの家業の話であり、家業を取り巻く古くからの間柄の人たちとの物語でもあり、身近な家族の話でもあります。

“Zsa-Zsa” Kordaさんに付き合うので、損になる可能性も確実にある投資話を引き受ける交渉相手の皆さんは、古い付き合いなんです。一緒に連れて歩いている娘のLieslさんにお母さんの面影をみるので、お母さんを知っているよって話しかけたりもするんです。

暗殺に直接かかわっている人たちを”Zsa-Zsa” Kordaさんは覚えていたり。

危険な目に遭うたびに神明裁判を受けているような夢を見るんです。臨死体験としては手厳しいですよね。批判にさらされてばかりなんです。それでも夢のなかなので、”Zsa-Zsa” Kordaさんがそっと抑圧していることが意識上に浮上していたり。妻にささげるのは鹿なんです。ケリュネイアの鹿なのでしょうか?鹿が体のなかに隠しているのは金貨になっていたり。アルテミスのような妻に捧げる鹿のなかから出てくるたくさんの金貨を見る妻の口からは残酷な言葉が出てきたりもします。

臨死体験を繰り返しながら、交渉事を解決するべく”Zsa-Zsa” Kordaさんは行動しているのか、藪から棒を引き当てるために行動しているのか本当に不透明な状況でもあるんです。

あと何回死ねばいいんだろう?って悩んだりもしますし。

世界の暗部で仕事をする”Zsa-Zsa” Kordaさんの最大のプロジェクトである「フェニキア計画」は、アメリカ合衆国の諜報機関の妨害まで受けながら、主要なインフラ計画の主要機関を引き受ける投資家との交渉を切り抜けなければいけない状況なんです。どこで、だれが投資の損益のなぞなぞを被ることになるのでしょうか?今後150年の利益を”Zsa-Zsa” Kordaさんは確実にすることができるのでしょうか?

できるだけ、ストーリーに近づきながら、ストーリーそのものに言及しないようにするってむつかしいですね。

映画音楽は本当に映画音楽然としています。映像の邪魔をまったくしていません。担当はアンダーソン監督作品では常連のAlexandre Desplatさんです。

観客が映画の音楽と出会うとき、こんな出会い方なんです。

とうもろこし畑で瀕死の状況を普通に歩いて生還した”Zsa-Zsa” Kordaさんの病室の隣と一続きになっていると思われるバスルームの場面でレコードからストラヴィンスキーのバレエ音楽が流れてくるんです。レコード音源なのでレコードの針の音がします。音源は実際にRCA Victor Symphony Orchestraというレコード会社が所有しているオケの1947年の音源のようです。

観客はレコードの音源を聴きながら、映画の世界に入っていくんです。

これは素敵な導入部だなって思いました。

映画音楽がそこまで主役をはるような登場の仕方をしないので、映画の細部の音が案外大事な場面もあるんですよ。

舞台は1950年。歴史では1956年には第二次中東戦争が起こるんです。当時は帝国による植民地支配が消えていく時代であり、地域によっては民族主義の台頭も。1956年にエジプトがスエズ運河を国有化するのですが。欧州にとっては、第一次大戦、第二次大戦を通じて、スエズ運河はインド、北アフリカ、中東をめぐる戦略上重要な運河になります。1952年にはそれまで王政だったエジプトに軍事クーデターが起こり共和政体に変わり、大国にはよらず、アラブ諸国との関係性を強めるエジプトに危機感をもったイギリスとフランスは、第二次大戦以降、軍事侵略が国際的な逆風を招くのを勘案して第一次中東戦争でエジプトと敵対関係にあったイスラエルを抱き込むことで軍事行動に移るんです。イスラエルが軍隊をシナイ半島に展開するんですが、イギリスとフランスは停戦要求と部隊展開を迫る形で軍事介入に踏み切ります。つまり、運河地帯の分断を図るためです。しかし、アメリカ合衆国は同調せず、ソ連は軍事行動を非難し、3か国による侵攻はたちまち国際的な非難の的に。短期間で停戦にいたり、なかなかシナイ半島から撤退しなかったイスラエルも国連などが粘り強い交渉を続けた結果、撤退をします。エジプトは中東での存在感を増すことになります。イギリスはこの侵攻によって経済的に致命的な打撃を被ります。

同じ、1950年代、アメリカ合衆国の支援を受ける軍事政権に支配されていたキューバでは共産主義を掲げる若者たちが解放戦線をはって革命を目指すんです。

ベニチオ・デル・トロさんが制作と主演の両方をやりきって、Che(2008)として映画化しています。

映画のストーリーが展開する時間軸ではないのですが。50年代にはこういうことが起こるんです。

考えると激動の1950年代でもあり。

古い時代の秩序というのが壊れて、戦争を挟んで、別の秩序の台頭もあるんです。

そのはざまのフェニキアに”Zsa-Zsa” Kordaさんは存在をするんです。

演技上の白眉だなと思った場面もあります。バスケットの試合の場面があるでしょ?画面の中央にベニチオ・デル・トロさんがいて、トム・ハンクスさんとブライアン・クランストンさんが後方右で並んでいるんですが。3人の存在感の抑制が際立っていて。アメリカ合衆国が誇る名優のみなさんなんですが。不思議なくらいに俳優としての自己顕示欲が皆無なんです。

3人の俳優さんは映画のために、映画のショットを成立させるための演技をなさっていて。通常のアメリカ合衆国の映画では経験しないことなので。驚きましたし、素晴らしいことだなとも思いました。

すべてではないものの、アメリカ合衆国の映画がみせる成熟は素晴らしいと。

実はアメリカ合衆国の俳優の皆さんって過小評価される部分もあるのかもしれないなって。

思ったりもしました。

映画にかかわるみなさんは、いざとなったらショットを成立させるために努力するんですよ。

凄いなって。

“Zsa-Zsa” Kordaを演じるベニチオ・デル・トロさんは繊細な演技なんです。機内で本を読むときの手の使い方や贈られた短剣をLieslさんが持っていた短剣と取り換えるときの手のしぐさに品性が表れているんですが、最後にはレジからお金を取り出して娘に分け前を与えたりするときの手のしぐさと別人物にはみえないんです。

あれは演技の妙なんですね。

ほかの俳優さんもそうなんですが。

本当にきめ細やかで、しかも映画のための演技になっていて。献身的なんです。

素晴らしいんですよ、本当に。

映画を観ていると、無償の愛というのは届かないものなんだなって思ったりもしました。冷静に考えればわかるのに。不当に扱われたと思い込んだり、子供はいくつになっても大人になりきれずにそんな感情にとらわれるものなんだなとか。相手から向けられる無償の愛に心のどこかで気づいているからこそ、それになかなか気づけないものなのかもしれないって。当たり前に差し向けられるものに安住していて、足りないものを探し続けているのかもしれないって。わたしが思うあなたはこうであってほしいと。

世界中、どこの国でも一緒なんだと思います。

“Zsa-Zsa” Kordaさんは大事な娘から受ける根本的な批判に対して、また悪者扱いなんだってうなだれたり。

その靴箱がそこにあるってことは?いろんなことに気づかない登場人物たちを通して、登場しない登場人物のことを考えたり。

Lieslさんはそれでも理想の娘になるんだと思います。頬をぶっても赦すでしょ?普通の娘が赦さないようなことも。修道女って大変なんだって思いますよね。

祈った結果が奇跡として顕現するわけではなく、このような祈りを願ってしまうわたしという主体は、神の使役を受けて、そのような願いを感じる受動体なんだと考えるのですから。

合理的なのか、どうなのか。確かに修道女であるには頭が切れすぎるのかもしれません。

愛情が一方通行って恋愛だけじゃなくって、親子でも案外一方通行だったりするときもありますよね。

それでもお互いに大事な存在だって思っているからこその行動もありますし。

これが傑作じゃなくって、何が傑作なんだという作品になっています。

さすがにほっとしました。楽しみにしていた甲斐もあります。

ショットのつくりかたについては新しい方向性もあって、カタストロフのときにその場にいる登場人物たちの表情の挿入があるんですが。それまでとは質が変わるんです。こういう場面転換の仕方ってあるんだって思いました。それが最後の家族の風景につながるんですよ。

ちなみに今回は名画を撮影現場に置いていたそうです。映像にもありますし、台詞にも出てきますよね。

映画の最後に献辞のような文言なんだろうか?というのがあったので、調べると監督の義理のお父様が逝去なさったそうです。きっと義理のお父様も娘の結婚相手が映画監督なんて予想もつかなかったのかもしれませんし。人生に驚きがあるって楽しいですしね。ご家族の皆さんのこころのなかにこれからも残っていくんだと思います。

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