バイアスのない視点。

それは存在しない視点になります。誰でもバイアスがかかるんです。誰でもです。バイアスから逃れられないといったほうが正しくなります。

近年、言葉としてなぜか定着気味の言葉に「論破」ってありますよね。おそらく、日本では禅問答から派生した言葉だと思っています。通常、禅問答はちぐはぐだったり、何を言っているのかわからない、かみ合わない問答のことを指します。ただし、禅問答は、禅では、修行僧の行事のなかできちんと行われている作法になりますし、勉強も必要なんですよ。公案という問題集があるんです。東アジアのアイディアを育むそうですが、実質的には日本人特有のアイディアになると思います。

有名なものでは、「両掌相打てば 声有り 隻手 何の音声か有る」というものがあります。両手でたたくと音がでますよね。では、そこに片手しかない場合、どんな音が出るんでしょう?という問題です。

英語だと答えがあります。”Finger snapping”ですって答えて、親指と中指で音を立てることが出来ます。これは、もともと日本にはないアイディアです。ギリシャの遠い昔の壺にはその絵が残っていますが。

日本語だけ知っている場合でも、指パッチンやろーってなりますが。江戸時代以前にそのアイディアがあったかどうかは知りません。ない可能性の方が高いのかもしれません。

また、「論破」と「説破」は同じ意味を日本語では持ちます。

目下、人の考えの総体自体を言い破るといった大仰な意味として用いられているみたいですが。

どう考えても、口げんか以上のものと思えないんですが。

間違っているのでしょうか?私の考え方のバイアスのかかり具合だと。

私の先生(複数形です)は、悶々と悩んでしまった状況で研究室に駆け込むと、話を聞いてくださっていたんです。


私 「先生、悩んでいるんです。」

先生 笑顔でうなずきながら「何を?」

私 「ポストコロニアリズムが流行っていますが、主著は読んだんです。でも、明らかに上手く論考出来てないような気がするんです。あれ、合ってますか?私は不自然なような気がするんです。」


軽口の途中だったら、先生も、あ、あれは上手く当てはまるケースと、上手くいかないケースがあるわねっとすぐに答えてくださるんですが。完全に悩んだ状況でいくと、わたしが、どの小説を対象に行われたポストコロニアリズムの論考のうちの、どの部分に対して、何を悩んでいるのか、具体的な答えを引き出そうとしてくださるんです。「うん。それで?」って。

この場合は相談形式ですが。問答にはなるんだと思います。問いは自分がもっていて、答えも私が持っているはずなんです。ただ、それを引き出す存在が先生になるんです。

私の着地点が間違っていた場合と、筋道が通っていた場合と様々なケースが想定されたと思いますが。

私は先生に「論破」される経験はありませんでした。

それは視点がずれているという場合は、そこまでもっていってくださっていました。視点がある程度的を得ている場合には、早い段階でOKをだしてくださっていました。

それを「論破」というかというと違うんだと思います。私は「問い」を抱えた総体で、「問い」の背景を抱える総体で、私の「問い」がとある「解のようなもの」を導き出したとき、それが、当時の学問の軸からそれていた場合、先生が私に向ける疑念の言葉は「論破」にはなりません。

軸からそれていた場合には、先生から注意を受けます。当然です。

言葉が薄っぺらく扱われるようになってしまった現代なのでしょうか?

結論をいそいでも、意味がないのに。慌てて結論を出そうとしたりしてもしょうがないですし、あらゆるバイアスのなかで、正しさに行きつくって案外、至難の業なんですけれどね。

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