『時間と他者』について

講義録が元になっている著作になります。日本ではおそらく絶版になっています。Facebookのほうで文章を書いていたのですが、新たに書いたものが却下され続けているので、こちらに文章を移すことにしました。


元々は講義録ですが。版が重ねられても、レヴィナスはまったく加筆修正を行わなかったそうです。

「時間は孤立した単独の主体に関わる事実ではなく、そうではなくて、時間はまさに主体と他者の関係そのものである」

レヴィナスはこのテーゼには、社会学的なもの何も含まれていないと付言しています。

学域としての社会学の総体を一部になるはずの、日々の社会生活のなかだけに他者がいるわけでないという意味です。読書の際に、レヴィナス自身に出会うことが出来る本です。


【実存することの孤独】

少なくとも、近代的な意識は、それほどたやすく自らの秘密と孤独を投げ棄てることはできないだろう。そして、この融即の経験が現に強度もあり得る限りにおいて、それは脱字的な融合と一致する。(中略)<実存すること>は、あらゆる関係を、あらゆる多様性を拒絶する。それは、実存者以外の誰ともかかわることはない。

______________________________

「私」という存在は決して他者にはなれないのです。社会が「私」を取り囲み、それらと交流する「私」と、実存的な「私」は別の意味になります。「私」の中に存在する、例えば言語化される手前の想念だったり、それを構築する「私の根っこの部分」というものは、相対化できません。なので、伝達不可能になります。例えば、古い部族のなかでのみ存在する「私はアララという鳥だ」という言説でも、「私」は「アララという鳥である」という文脈の枠の中に存在するために、その部族社会の文脈中で理解される可能性はあるのですが。その文脈が成立する社会そのものは、論理が存在しうる以前のものになってしまいます。

宗教においても実はそうなのですが、最低でも2つの極を確保しているのです。実は宗教は一元論を嫌うという性質をもっています。

「私」が担保されるのは、常に「私」においてということになるので、「私」が実存する限りは、他者と交わることはなく、孤独が続きます。

でも、レヴィナスは「孤独が乗り越えられる状況に思いをめぐらせてみること」、その視点を諦めているわけでは決してないんですよ。


【実存者なき<実存すること>】

再びハイデガーに戻ることにしよう。存在(ザイン)と存在者(ザイエンデス)とのハイデガー区別ー私はすでにそれを用いているわけだがーは、ご存じの通りである。つまり、存在(エートル)と存在者(エタン)ということになるが、私はそれよりもむしろ、口調の理由から<実存すること(エグジステ)>と実存者(エグジスタン)ーこれらの用語にことさら実存主義的な意味をこめることなくー訳すことにしたい。

______________________________

ここでは、かなりむつかしい跳躍がレヴィナスによって試みられています。実はこの議論自体は存立できないのです。言語が異なるということは「統語論」の土台が異なるということになります。ドイツ語とフランス語、そして品詞が変わることというのは「意味内容」自体が変わるということになり、その分、解釈にゆだねられます。

この箇所は、厳格なレヴィナスにしては不思議な箇所になりますが。実は、レヴィナスはここで、ハイデガーを起因として、同世代のサルトルが打ち立てた「投企」のアイディアへ敷衍させています。ただ、引用するのはジャンケレヴィッチという倫理学者になるのです。むつかしいですね。レヴィナスが一筋縄ではいかない哲学者の側面を見せる部分です。ここでそのジャンケレヴィッチの「ハイデガーとかいう人の表現」を援用して翻訳を試みています。

<実存の…..>「うちにー投げられてーあるーこと」《fait-d’etre-jeté-dans》

とレヴィナスは翻訳をしています。そして、重要な視座を示すのです。

_____________________________

実存は実存者から独立しており、実存のうちに投げすてられている実存者は決して実存の支配者(メートル)にはなり得ないかのように。まさしくそれ故にこそ、そこに遺棄<デレスマン>と放棄<アバンドン>があるのだ。こうして、われわれ抜きで、主体抜きで生起するところの<実存すること>、実存者なき<実存すること>、というような観念がそこに姿を現すのである。

_____________________________

ここがレヴィナスの深みになります。実存主義の根底を実は揺るがしているのです。英語でいう、” there is “のアイディアとフランス語の ” il y a ” のアイディアは統語論が異なるので同じ土台では語れません。それだけ、” il y a ” のほうが深みがあります。英語でいうと”it have or it has ” いう意味も含むのです。

レヴィナスは非人称としてその概念を打ち立てようとします。”il pleunt.” (雨が降る)そして、”il fait chaud.” (気温が高い、暑い)という例文を用いながら。”il” および “il” のみで成立できない ”il y a” の概念にひそむ匿名性や、非人称の要素です。

_____________________________

<実存すること>は、いかなる否定によって遠ざけれられようと、再び立ち戻ってくるのである。そこには、純粋な<実存すること>の容赦なさとでもいったものがあるのだ。

_____________________________

サルトルの「投企」の概念にはここまでの深みはないんです。そして、レヴィナスは読者に理解を深めてもらおうと、ヘラクレイトスの思想と突き合せたり、シェイクスピアへとその概念を敷衍させたりしています。最後の部分がいいのですよ。

_____________________________

つまり、意識の本来の意味は眠りの可能性を背にした覚醒状態であるというところにあるのではないか、自我(モア)という事実は非人称的な覚醒状態という状況から抜け出す〔脱する〕能力ではないか、と問うてみなければならない。(中略)しかし、意識をとりわけ特徴づけているのは、眠るために、「背後に(デリエール)」退く〔隠れる〕可能性を絶えず保持している、ということである。意識とは、眠る能力のことである。この全的な逃避こそ、いわば意識なるものの逆説そのものなのである。

_____________________________

そうです。逆説そのものなので、私たちは夢のなかで夢のなかでしか成立しないような出来事が立ち現れる瞬間に眠りのなかで日々立ち会うことになるのです。


【位相転換(イスポターズ)】

要するに、意識とはイリヤという匿名的な覚醒状態の中断ということなのであって、それはすでに位相転換(イスポターズ)〔品詞転換〕なのであり、実存者が〈実存すること〉と関わり合う状況に準拠しているのである。

_____________________________

この章の冒頭の部分を正確に読解することは、実は私には困難なのです。英語の統語論については基本的な知識がありますが、実はフランス語の統語論については専門的に学んでいないので、正確な言及ができません。例えば、il y a については、機能としては前置詞句的という見方もあるそうです。専門の方がおっしゃっています。その見方を援用すると、il y a 自体、統語論のなかでどのように説明がなされるのかについては、少し幅があるようです。

例えばこのような文章があります。

”Tu es en retard.” “Il y a ma voirture qui est tombée en panne.”

「遅刻だね。」「車が故障してしまってね。」

ちょっとフランス語の語法を援用しながら、無理やり不可思議な英語に翻訳してみましょう。

“You are too late.” “It causes my car which has broken down.”

もちろん、英語ではこのような表現はしません。

通常なら、”Something has gone wrong with my car.”となります。

そして、これに近しいフランス語だと”Ma voiture est tombée en panne”となるのかもしれません。統語が異なるので同じ俎上にのせることはむつかしいのです。

ですが、Il y aは英語のように、It~ thatのような構文をとり、この”Ma voiture est tombée en panne.”の意味内容全体を指しているという解釈もできます。あくまで機能としてですが。

意味内容を先行する “Il y a”が品詞として変更されているという解釈はむつかしいのかもしれません。ですが、内容を言い含める役割はしているのだと思います。

_______________________________________________________________________

われわれはもちろん、何故そのようなことが生じるのか、ということを説明することはできない。つまり、形而上学(メタフィジック)の分野に物理学(フィジック)〔自然法則=因果律の研究

〕は存在しないのだ。われわれはただ、位相転換〔品詞転換〕の意義はいかなるものか、ということを明らかにすることができるだけである。

_____________________________

レヴィナスが不可思議なことを試みて失敗しているわけではないのです。”Il y a”の役割はあくまで非人称的であるということを読者に確認した後にその後にくる”that節”を問題として取り上げているからです。

_____________________________

「存在するも何ものか」《quelque chose qui est》の出現は、まさしく匿名的な存在のただ中での逆転(アンヴェルシオン)〔転換〕という出来事である。この「存在する何ものか」は、その属性(アトリビユ)として〈実存すること〉l’exsister を含み、主語が属詞(アトリビユ)の支配者(メートル)であるのと同様に、この〈存在すること〉の支配者である。

_____________________________

“Il y a”は”There is”の意味ももちます。 “There is something which is.”、目的語がないので英語に翻訳すると少し変ですが、実存している何者か “something” はこの一文の中には含まれていますが、”something”と”There”は等価可能ではありません。品詞一つ一つが綿密には分類しがたい構造の中に存在しています。この一文のなかでも、”something”は意味論上は、意味のある何者かというニュアンスは施されますが、統語論上、確定的な意味を持ちえません。特定が可能なようで、可能ではないという状況にあります。統語論上の役割をきちんと割り振ろうにも、”something”はそっとすり抜けていくようです。”something”と”someone”に置き換えて動詞を”exists”に変更し、そこに「実存者」の意味内容を文脈上の上にそっと織り込んでも、意味内容自体がすり抜けていきます。

_____________________________

もっと正確にいえば、実存者の出現は、それ自体としては本質的に匿名的なままであり続ける〈実存すること〉のうちに、支配を、そして、自由を設立することそのものなのである。この匿名的な〈実存すること〉のうちに、実存者が存在し得るためには、この〈実存すること〉のうちに、自己(ソワ)からの出発〔脱出〕と自己への回帰とが、すなわち、自己同一性(イダンテイテ)の活動そのものが、可能にならなければならない。自らの同一化ということによって、実存者はすでに自分自身に対して自らを閉ざしたのである。つまり、実存者は単子(モナド)であり、孤独である。

_____________________________

実存者としての”someone”は”Il y a”に回収されることなく投げ出されています。”someone”の意味を”I”に置き換えると、更に孤独感が増しそうです。

一般的なフランス語の例文を挙げましょう。

“Il doit y avoir quelque chose dans le frigidare.”

冷蔵庫に何かあるはずだ。

冷蔵庫の中にある実存はいったいどこに存在しているのでしょうか?冷蔵庫を開ける前の時点なのでしょうか?冷蔵庫を開けた後の時点になるのでしょうか?現在なのでしょうか?それとも過去なのでしょうか?冷蔵庫のなかに本当に「存在」しているのでしょうか?

____________________________________________________________________

それは〈実存すること〉という始まりも終わりもない、無限の網目(トラム)に生じた裂けめなのだ。現在は、引き裂き、また再びむすびつける。それは、始める。それは、始まりそのものである。それは過去を持つが、しかし、想起というかたちをとって、過去をもつものである。それは歴史をもつが、しかしそれが歴史であるのではない。(中略)問題とされているのは、今からすでに構成されている時間のなかから切り取られた現在、つまり、時間の要素(エレマン)ではない。そうではなくて、現在の機能〔作用〕つまり、現在が〈実存すること〉という非人称の無限のなかにもたらす裂けめが問題になっているのである。(中略)何よりも、肝心なことは、現在を、そこではすでに〈実存すること〉が〈実存すること〉の機能として、実存者へと転じているところの〈実存すること〉と実存者との境界にあるものとして捉えることである。

_____________________________

冷蔵庫にある「実存している」何ものかは、すでに「実存している」はずなので、「実存している」何ものかについてはその存在の背景はあるようですが、冷蔵庫の中にある何かなので、思いつく人の心のなかにそれぞれの形をとって「実存して」おり、同じ「実存」の形はとりません。つまり、バラバラな形で存在しており、心の中にそれが想起されるときに想起する私たちの境界線上に現れる「実存」の形をとります。想起する瞬間瞬間でその何ものかは、意味を変えるはずで、同じ形を持ちません。想起する私たち自体が両義的になっていきます。

_____________________________

哲学者たちは常に、この「我(ジュ)」に両義的な性格を認めてきた。すなわち実態ではないが、しかしそれにもかかわらず、すぐれて実存者であるというわけだ。「我」を精神性(スピリチュアリテ)により定義すること――精神性なるものが様々な特性と等価であるとすれば、それは何も言わないに等しい。(中略)<実存すること>と実存者の境界にあるものとして、位相転換の機能として捉えるならば、自我は、直ちに、可変的なものと恒常的なものとの対立の外に、いわば、存在と無との範疇(カテゴリー)の外に、位置することになる。このような逆説(パラドクス)は、「我」はそもそも一個の実存者ではなく、〈実存すること〉の様態そのものである、厳密にいえば、「我」は実存していない、ということが理解されるときに、逆説たることをやめるのである。

_____________________________

冷蔵庫の中にある「実存」は私たちがそこに何か「実存」はずだと想起する中にも外にも実は存在しているとはいえないのです。私たちが想起する冷蔵庫のなかにある何か「実存する」ものは、私たち、それぞれが、想起する様式の中に存在するのです。つまり、目前の冷蔵庫を目にしながら、東アジアの私たちが想起する「実存」と南アメリカの私たちが想起する「実存」と、東欧の私たちが想起する「実存」と、それぞれの世界中の人の前にある「冷蔵庫のなかにある何か」はそれぞれ違うことになり、私たちを一般化することから遠ざけてしまうだけなのです。つまり、私たちは冷蔵庫のなかにある何かに対して「実存しているか」という疑問を投げかけられたときに、それぞれの文脈の中に散逸してしまい、存在する足場そのものを失ってしまうのです。

_____________________________

最初の自由。それはまだ自由意志の自由ではなくて、始まりの自由である。現に今、何ものかから出て〔出発して〕こそ、実存なるものが存在するのである。あらゆる主体に、主体が存在し、存在者が存在するという事実そのものに、包含された自由。〈実存すること〉に対する実存者の支配力そのものの自由である。

_____________________________

フランス語の “Il y a”は、統語論上次のような規則を持つそうです。それにつづく語句は、その場ではじめて話題にされる事物なので、原則として不定冠詞・部分冠詞のついた不特定の名詞句である、とされるそうです。私たちは存在する足場を失ってしまうかのように見えるのですが、”the” という定冠詞、つまり特定のものを指すという小さな枠組みから逃れる自由をそこで確保できるのです。はじめての自由です。冷蔵庫のなかにある「実存」もそれを目の前にしてなにかあるはずだと思っている「実存者」であるわたしたちも、始まりに立ち会うことになるので、文脈上の自由をも実は持つことになるのです。

冷蔵庫のなかにある何かは冷蔵庫を開けてみないとわからないのです。


【孤独と位相転換】

この試論(エチュード)の冒頭で、孤独は実存者とその〈実存すること〉とのあいだの解消し得ない統一性(ユニテ)として特徴づけられたのであるが、そうしてみると、孤独は他者の何らかの想定〔予想〕に起因するものではない。孤独は、あらかじめ与えられた他人との関係の剥奪〔喪失〕として現れるのではない。それは、位相転換の活動に起因しているのである。

_____________________________

レヴィナスはこの『時間と他者』を仕上げた後に、改訂版は出していません。付け加えることがないとレヴィナスは判断していたのだと思います。そしてこの本の冒頭の文章はつぎのようにはじまるのです。「孤独の深刻さは、いかなる点にあるのだろうか。陳腐な言い方ではあるが、われわれは決して単独で実存しているのではない。われわれは様々な存在〔人々〕や事物に取り囲まれ、これらの存在や事物と様々な関係を保っている。」と書き始めているのです。他者との関係性(もちろん、実際の関係性も含んでいますし、また本に出会い、著者に時を超えて出会うことも含んでいます)は保持されるものという、レヴィナスの信念のようなものにふれることができます。そこに複数の人間がいて、そこにある社会性のようなものよりも、より根源的なものに触れようとして、フランス語の統語を援用して概念化を打ち立てています。それが「位相転換」です。

_____________________________

孤独とは、実存者の統一性そのもの、実存がそこから出発して形成されるところの〈実存すること〉のなかに何者かがあるという事実なのである。

_____________________________

私たちは様々な解釈の余地の余白のような場所を生きていますが、その場所は余白があるために、お互いにすべてを了解できうる可能性のある余白の場を設けていますが、同時に、解釈の場所でもあるので、「実存」を身の上に招聘されるという、自由を自己の身の上に引き受けなければいけない必要があるのです。

_____________________________

主体は、一なるものであるが故に孤独である。始まりの自由、〈実存すること〉に対する実存者の支配が存在するためには、ということは要するに、実存者が存在するためには、孤独が必要なのである。したがって、孤独とは単に絶望や放棄ということだけではなくて、雄々しさや誇り高さ、そして威厳〔主権性〕でもあるのだ。

_____________________________

冷蔵庫の中の何物かを認識するためには、様々な場所の様々な環境におかれた、それぞれの人々の認識を抱え込まなくてはいけないのですが。それらを抱え込む一歩手前の時点で、個人としての自己の認識に対して、責任を負う必要があります。責任を負うということは自分と向き合う必要があるということになり、そこでわたしたちは自分と向き合わなければいけないのです。また、その時間を確保せずに他者に向かうことは、無理解を生むという認識を自分の中に植え付ける必要があるのです。

_____________________________

ひたすら絶望的な表現で進めらえた、孤独についての実存主義的な分析は、これらの特徴を都合よく抹消しおおせて、誇り高く、貴族的で天才的な、孤独に関するロマン主義的、またバイロン的な文学と心理学との主題をことごとく忘却せしめたのである。

_____________________________

実は、レヴィナスはラカンと同世代になるのです。ラカンは無意識の中に言語的な分析を加えるのをその手法としていますが。そこにレヴィナスは都合主義的な解釈の余地を見て取り、批判しています。バイロンはイギリスの詩人です。イギリス文学のロマン主義そのものを指し示す詩人ではありません。イギリス文学上のロマン主義というのは、レヴィナスが言及するよりも、実際はかなり複雑なのです。レヴィナスがきちんとバイロンを読むことができていたかどうかは別の話になります。確認すべきことは次のことになります。レヴィナスが概念化しようとしている主題は「文学と心理学の主題をことごとく忘却せしめる」要素があるものという言及そのものになります。そして、バイロンを比喩として、ここで提出しています。レヴィナスが提出するバイロン像とは、おそらく古代ギリシャ文学を熱烈に賛美しながら、詩の中でそれを模倣しようとする演技的要素の強い「文学」のたとえなのかもしれません。そして「文学」と「心理」を並列させている理由はまた別にあります。ラカンはよく講演のなかで聖書について言及することがあったようですが。聖書は家族の物語です。そして、ラカンと関連性のある精神分析の基礎を築いたフロイトの有名な概念に “family romance” というものがあります。精神分析は家族の概念化と切っても切り離せない確執をもちます。そして、精神分析の手法そのものは、バイロンを比喩とした文学的演技性を幼児のなかにすら見出そうとします。「この試論(エチュード)の冒頭で、」とレヴィナス自身がふれるように、そのような安易な発想とは一線を画すものとして、ここで「孤独」をとらえようとする姿勢を受け止めることができます。そこに冷徹なレヴィナスの厳しさを垣間見ることができるのです。

Facebookの掲載分を加筆修正というほど、大仰ではない範囲で、直しています。次の箇所を取り上げるときには、また、ひとつひとつ、ゆっくりと取り上げることにします。

error: Content is protected !!