性別問わず、セクシャリティ問わず、一定数いますよね。
どろどろが好きなんですーという皆さん。

人間関係のどろどろー、こわーっという世界観です。
どうしますか?どろどろが好きなんですというひとが目の前に現れたら。
あ、どろどろな話をしたがっているというひとが目の前に現れたら。

逃げますか?
私は、逃げません。その代わりに、全く興味がないんですっという宣言をします。

手のひらを貸してくださいと言って、渡す感じです。
学生時代にいろんな小説をテクストとして読みました。どろどろなんだという印象をもって読めそうなものもありましたが、先生がハードボイルドに読む先生だったので、学生もハードボイルドに読んでいました。
一度、勉強で悩んで、畑違いの先生に相談に行ったこともあります。丁寧に悩みを聞いてくださった後に、こういう本を一度読んでみてもいいかもしれないと、ヘンリー・ジェイムズの『ねじの回転』をテーマにした論集を貸してくださったこともあります。一つの文学作品をテーマにした勉強のための論集があるのです。これから文学を学びますという人のための、英語の論集です。

凄い先生方に囲まれてすくすくと育っていたのです。
精読というのは、ナイーヴに登場人物たちに共感しながら行う作業ではないからです。
クロスリーディングという作業は、語り手との距離感を見定めながら、テクストを精緻に読んでいく作業になります。
ハードボイルドになるんですよ。そうです、”hard-boiled”、つまり、感傷的な状況に陥らずにテクストに立ち向かうことになります。
たとえば、エミリー・ブロンテの『嵐が丘』も読みましたが。
ハードボイルドに読んでいました。テクストの中身が非現実的でも、現実的に読んでいきます。精読は極めて現実的な作業になります。
非現実的に読者に映る描写については、どのように非現実なのかについて綿密に読み解くことが大切になるんです。そこに作家の努力があるからです。註の説明も丁寧に読まないといけませんし。
どろどろな小説としては読みませんでした。それでは、英文学の精読でもなんでもないからです。
英文学のどろどろの、ある意味、真骨頂はシェイクスピアくらいしかしりませんが。戯曲というのは、舞台上で、それぞれの演者の体を通して、観ている観客の人々に直接投げかけられる言葉として幾重にも、仕掛けが施されているんですよ。研究書で読みました。
シェイクスピアをあげましたが、同時代の戯曲家は、シェイクスピアだけではもちろんありません。さまざまな戯曲家がロンドンを中心に活躍をしていたのだそうです。研究書で読みました。
私の周囲の先生は総じてテクスト重視だったので。
どろどろした小説など、存在しないも同然だったんです。
なので、どろどろ自体は本当に苦手ですっ。

どろどろからは常に一定の距離を保っています。というか興味が全くありません。
お化け屋敷のほうが怖いですよ。子供の時に、お化け屋敷で友達とはぐれてしまい、入り口に戻って、多分バイトの人だと思うんですが。そこに立っていた知らないお兄さんを無理やり、引っ張りこんで、友達とはぐれたから一緒に出口まで行ってほしいと手を引っ張って頼んだことすらあります。私ははぐれているので必死です。お兄さんは途中までつきあってくれ、怖いものは何もなく、ここからは走っていくとすぐ出口だからと言ってくれて指示通りに出口に向かって走ったこともあります。お化け屋敷の方が怖いんですよ。サル目ヒト科が、同じサル目ヒト科をどろどろの世界の中で怖がらせようと必死だからです。後に、友人たちと出かけた時にも、最終盤ではぐれてしまい、私が怖がるので、お化けを演じているヒトがさらに怖がらせてきました。なんとか出口をでて、待っていた友人たちと再会をしたんですが。その友人たちに、なんかもの凄い叫び声と、ドスンって音がしたけど、なんかあった?って聞かれて?え?ってなりました。怖かったので、思わず突き飛ばしたのかもしれません。ちょっと、覚えていません。ごめんなさい。突き飛ばしたような気もします。足はかけてないですよ。友人たちとしばらく出口にたたずんでいましたが。別にお化け屋敷の人に怒られませんでしたし。怖かったんですから。しょうがありませんよ。