グレートブリテン及び北アイルランド連合王国の哲学に関しては専門ではないです。ただし、常識として押さえておくべき流れというのは文献等で頑張って押さえてきたんですね。
中途半端なのかもしれないんですが。
そこは自信がありません。
中途半端です。
ただ、ジル・ドゥルーズの『経験論と主体性』を読んでいると、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国に関連した文献を勉強してきましたという皆さんには、もしかするとわかっていただけるのかもしれないんですが。
思考の跳躍どころか逸脱、もしくは飛躍になりすぎていて。
ドゥルーズは正確にヒュームをとらえる才能がないんじゃないのかな?って悩むんですよ。

ヒュームってどんなひとかというと。もっている古書の紹介文を引用します。
1711-76。エディンバラ生まれのイギリスの代表的哲学者。法学・文学・哲学を研究し、フランスに遊学(1734ー37)、つづいて一将軍の秘書官としてオーストリア、イタリヤに赴く(46-48)。その後エディンバラ図書館司書(52)、駐仏大使秘書官(63-65)、外務次官(67-69)を歴任する。ルソーをイギリスに迎え(後に不和になる)、また経済学者アダム・スミスとの親交は特に知られている。大著『英国史』(全8巻)のほか『人間本性論』『人間悟性の研究』等、多くの著作があり、死後出版された『自然主義に対する対話』は一大論議をまき起こした。
上記の説明になっています。古書のヒュームの翻訳書の見返しの紹介は上記の文章だと思います。
18世紀のひとなんです。実際に18世紀の教養人なので神学の知見はものすごくレベルが高いんです。ついていけません。
単にわたしの能力不足です。
当時のフランスの大学の学風が自由だったんだと思うんですが。ドゥルーズは学位論文を書くのに英語文献をおそらくほとんど読んでないんです。つまり、ヒュームを勉強しようとしてフランス語訳の文献を網羅的にはあたっているんですが。英語で読んでないんです。
言葉の壁って高いはずなのに。実際に高いです。英語とフランス語は。歴史的にはフランスにある言語の影響下で発達した側面もある英語になりますが。英語とフランス語の語義は異なるはずです。
きっと当時のフランスの大学がおおらかだったんだと思います。
そして、おそらくヒュームしか読んでいないような気もするんですね。

ドゥルーズの学位論文である『経験論と主体性』をヒュームを研究するひとが実際に精読をするのかどうかはわからないんですが。
毎回、違和感がかなりあるのが、一回もバークリへの言及がないんですよ。
おそらく、ヒュームを専門的に読んでらっしゃるみなさんには理解していただけるんじゃないのかな?って思うんですが。ヒュームを頑張って読もうというときに、どこかでバークリを読むことになりますよね。また、シャフツベリーへの言及も一切ないんです。
イギリスの哲学の流れが寸断されていて、ヒュームだけを取り出してきて、そこに接ぎ木ができるのかな?という部分が連続的に出てくるんですね。ドゥルーズの研究者も数多くいらっしゃると思うので、ここです、ここですという詳細な言及は避けますが。あげつらっても楽しくはないです。生産的な議論では全くないので。
例えば、論文をはじめて書きますという学生さんで、もしかすると、ドゥルーズが学位論文で取り上げているからといって、安易に引用先にするには厳しい内容なんですよ。指導教官の先生が指摘してくださると思います。100パーセント間違いはないです。スルーする先生のほうがおかしいです。
ヒュームのテクストに直接言及している箇所においても、どうやってドゥルーズの擁護をしたらいいのか見当すらつかない状況になるんです。要するに言葉の選び方、運び方の問題になります。本当に言語の問題なんだと思うんです。
それは、妄想である。虚構が原理へと生成しているとき、反省は反省することをやめはしないが、ただし、もはや矯正することはできない。そのとき、反省は、妄想的な妥協の中に身を投じるのだ。
ヒューム哲学の用語では、精神は[想像であり]、もはや妄想でしかなく、痴呆でしかない。完成したシステム、総合、そして宇宙論は、想像上のものでしかない。完成したシステム、総合、そして宇宙論は、想像上のものでしかない。虚構[想像]は、物体の存在を信じる信念を携えて、自分自身をひとつの原理として、連合諸原理に対立する。連合諸原理は、拡張規則の場合と同様に、[想像によって]付随的に逸脱されているのではなく、原理的に逸脱されているのである。そのとき勝利を収めるのは、空想[想像]である。精神自身の自然[本性]に対立して、精神自身の空想を通用させること、これが精神の自然[本性]へと生成してしまっている。ここでは、もっとも狂気に満ちているものが、それでも自然的なものである。
経験論と主体性
ヒュームの研究者のみなさんだったら、驚いて、ヒューム哲学の用語ってなんですか?って話になりますよね。ヒューム特有の言葉の用い方はあります(英語でいくつもあります。ここでは省きますが。論文でよく言及される言葉遣いや言葉の選択などがあると思います)が、それ以前に、議論として扱うには粗雑な部分を問題として急に切り出して来られても、そこまで飛躍させる思考の手続きの痕跡はヒュームにはないですってなりますよね(わたしはドゥルーズのフランス語が読み解けないので理解は中途半端になりますが)。ヒュームの文献群をドゥルーズなりに読解しているのが前提になっているので、結語の連なりになっていて的確にテクストの引用を引いてきて、ドゥルーズの論旨に接ぎ木できていないんですよ。前後の文脈をかみ砕いて読解している痕跡がドゥルーズの文体に皆無なんですよ。ドゥルーズならではのドライヴがかかりすぎた独自解釈と受け取られても仕方がない内容なんです。おそらく、この箇所については、ドゥルーズがヒュームのいくつかの文献を読解したうえでそれを一気に濃縮して、自分のアイディアの形態に落とし込んで叙述しているんだとは思うんですね。ドゥルーズの擁護をしようとするとそこまで考えないと原注の文献との辻褄があわなくなるんです。
手前にあるドゥルーズによるヒュームのテクストの引用については、原文の日本語訳は次になります。
ここに我々人間の自然で、分明な原理が、研鑽を重ねた省察に打ち勝つ。とはいえ、この場合は確かに或る争闘と対立があるに相違ない。少なくとも、省察に何らかの勢いないし活気が保留されている限りは、そうであるに違いない。ここにおいて、この点で心を安らかにするため我々は、理知と想像との二つの原理を共に包摂するように見える新しい仮説を創案する。そしてこの仮説こそ、知覚と対象との二重存在という哲学的仮説である。この哲学的仮説たるや、一方では、心に依存する知覚が中断し且つ互いに異なることを許容して理知を喜ばすと共に、他方では、知覚以外のいわゆる対象なるものに連続的存在を帰属する点で想像にとっても快適である。ゆえにこの哲学的体系は、互いに反対な・しかも心の同時に奉ずる・且つまた互いに他を滅し得ない・二つの原理が生んだ奇形的産物なのである。〔繰り返し言えば、〕想像は、類似する知覚が連続的な中断しない存在を有して、心から姿を消す時も消滅しない、と物語る。ここにおいて、我々はこの二つの考えの矛盾を新たな虚想によって回避する。この新たな虚想は、反対な性質を異なる存在に[ひとつずつ]、即ち知覚には中断を、対象には継続を、帰して、よって以て省察の仮説にも空想の仮説にも符合するのである。蓋し、自然[即ち天性]は頑強で、理知がどれほど強く攻撃すればとて潰走しなかろう。が同時に、理知も問題の点においては非常に明晰で、覆い隠すことは全くできない。かくて、理知と想像との敵同士は和解が不可能である。ここにおいて我々は、でき得る限り心を安らかにすることに努め、そのためにおのおのの要求を次々とかなえて、二重存在を捏造し、この二重存在のうちに各自が望む全条件を備えたものを見出すことができるようにするのである。
人性論

そして、ドゥルーズが引用しているヒュームのテクストの仏訳の日本語訳です。二つの箇所に分割されて、ドゥルーズの解釈が挟まれています。解釈としかいいようがないんですよ。最初の引用箇所についての解釈ですが。ヒュームが知覚などの概念を取り込みながら論考を行うときには、二つの項を立てて、その調停を行うものではなく、そのなかで生起する矛盾というのは執拗に続いていき、読者であるわたしたちというのは矛盾を含んだ二つの項を「把握していく」だけであるとドゥルーズは述べています。ドゥルーズなりの嫌味でいうと「因果性の或る新しい不当な用法を折り込んでいるので、それ固有の困難さえもたらす」ということになります。ヒュームの論の展開をきちんと読み込んではいます。上記のヒュームのテクストにも書いてあります。理解できますよね。
そうした仮説[哲学的システム]は、依存的な諸知覚が非連続で異なっていることを認めるという点で、理性に好まれると同時に、わたしたちが対象と呼んでいる何か知覚ではないものに連続的存在を帰属させるという点で、想像にも気に入られる。
経験論と主体性
次の引用の後に最初に引用したドゥルーズの解釈の展開があります。
精神によって二つとも同時に把握され、互いに破壊しあうことのできない二つの相反する原理からの、奇怪な成果なのである。
経験論と主体性
この二つの引用箇所は、上記に引用した『人性論』に実際に記載があるということになっています。引用ですから。ですが、日本語を介在させたとしても仏訳のテクストの文章がわからないという状況になるんです。繰り返しですが、上記の二つのドゥルーズによるヒュームのテクストの引用は、わたしが引用した『人性論』のなかにあります。学位論文を書くのに、きちんとした仏訳のテクストを使用していないとは考えられないんですね。

翻訳が間違っているようには見受けられないんです。木田先生と財津先生は真摯に翻訳をなさっておられるはずなので。この箇所は岩波文庫の大槻訳でこのページに記載がありますという註解になっています。
いちいち、頁数の記載をしないのは、指摘だけにおさえておきたいからです。読むといっても二段階になりますし(ヒュームのテクスト群とドゥルーズのテクストです。ドゥルーズが安易に一つの文献から引用を行ってそこからナイーヴに論考をつづけているようにはみえないんです。いくつかの文献にまたがっているような気もするんです。無論、ヒュームの文献です。気のせいだといいんですが。きっとわたしの勘違いなんですよ。そう考えないとヒュームの英語の文献を調べてもこんなこと書いてないんです。そして、ヒュームの文献は実際にたくさんあります。私には全部の文献に対する理解はないですが)。『人性論』のテクストを引用しながら(『経験論と主体性』には実際ヒュームの複数の文献の引用が原注に記載されています、そして、この部分に関しては主に『人性論』からの引用がなされているんですが、ヒュームの別のテクストに対する読解を折り込み済みで論自体が展開しているようにも読み取れないことはないんです)引用箇所の突合せをやっても、ヒュームのテクストを理解していても(英語の引用は割愛します。大槻先生の翻訳は誠実ですし)、ドゥルーズがどのようにヒュームのテクスト自体を解釈しなおしたのか容易に判断ができないんです。学位論文としては不誠実なんですよ。かなりの不誠実です。全体的に不誠実なままに論考が進むんです。無論、すんなりと読める箇所もありますが。それ以上に辻褄が合わない部分が少なくないんです。
ヒュームが、例えば、カルタゴの元老院について言及する際には文献を押さえている可能性が高いんじゃないのかなって思うんです。論考を展開するための下地としてのアイディアとして、カルタゴの元老院をひいてくるんだと思うんです。そして、実際にどこかの文献でその叙述を読んでいるはずなんですよ、ヒューム自身が。原注がありますしね。論文として読むときに、ヒュームは誠実なんですよ。ヒュームなので自明ですよね。
つまり、ヒュームは論文の手続きをきちんと行っていて、ドゥルーズの場合は原注に正しく記載がない論考の展開が文体の中に織り込まれているとすると、注の記載すら信頼がおけない不安定な論考であり、手続きが正しく踏まれないまま学位をとっているということになるんです。ドゥルーズを最大限に擁護した場合で、文脈の整合性については読者にゆだねる姿勢をドゥルーズがとっていた場合にはそうなります。これだと学位論文の体はなしていないことになります。

通常、論文を読みこなすときには、テクストの精読を行って、注に記載があるものはできるだけ調べるでしょ?そういう部分について、ドゥルーズがヒュームの痕跡を追って更に勉強を重ねている様子がないんです。文体に痕跡がないので。もしかするとフランス語文献で調べられなったのかもしれませんが。
ドゥルーズの論考を読んでいても、フランス語と英語の差なんだとは思うんですが、ヒュームが使いそうにない語彙にあふれているんですね。言語の違いがあるとはいえ、ヒュームの翻訳はきっとヒュームの口吻を伝えているはずだと思いますし。ドゥルーズはフランス語訳のヒュームの著作をどのように読解したんだろうって悩むんですよ。例えば、わたしたちが日本語でヒュームの論考を読むときには、ヒュームの英語を日本語に置き換えた翻訳として読みますよね。そこに口吻を感じ取ることもあります。それと同じ次元で、ヒュームについてのドゥルーズの思考の手続きをフランス語からの翻訳で読むんですが。折り合いがつかない箇所が出てくるのは確かなんです。
すべての手続きが間違っているわけではないんですよ。それでも、要するにそこまでヒュームは言及していませんっという箇所は出てくるんです。
これはヒュームの研究者が読んだら憤慨するどころか、冷たくあしらう段階の学位論文にしかなりようがないと思うんです。
英文学でも、細かに文脈が追えていない、論に飛躍がありすぎるという姿勢は唾棄されるので。イギリスの哲学の流れも押さえずに、ヒュームだけ取り出しても意味がないんです。扱う主題がヒュームにも関わらず、前後の文脈も正確性を欠き、18世紀のイギリスの人文学の潮流は一切盛り込まれていないんです。論文として、どう捉えていいのかわからないんですね。

おそらく国際学会とかになると、しかも、ヒュームでしょ?ドゥルーズは間違いなく、袋叩きにあうと思うんですよ。英語文献で読解していない時点で相手にされない可能性のほうが高いと思います。ヒュームのこの言葉についてなんですが、仏訳ではどうなっていますか?ここはフランス語の語義として理解していませんか?18世紀にヒュームがこの英語の言葉について、どのような語義を持たせていたか、あなたの見解をお聞かせ願えないでしょうか?って質問を受けたら、中核部分が崩壊する危険性もあるんですよ。
正直言って、かなり、厳しいと思います。
ヒュームの時代における関連性のあるはずのイギリスの哲学の文脈に生起する他の哲学者への言及も皆無ですし。
むつかしいでしょうね。
何度読み返しても擁護できないんです。
イギリス哲学を通時的に追う場合は、ヒュームは避けて通れませんし。ヒュームを読解するということは前後を押さえるときに頭を抱えまくるでしょ?参考文献を探しまくるでしょ?前後の文脈だったり、時代性を無視してはヒュームの読解なんて無理だと思うんです。注が細かいので助かる部分が少なくないのですが。それでも押さえるべき文献が膨大にあるくらい、理解できますよ。実際にヒュームの研究者の皆さんは大変だと思います。また、ヒュームの思想自体、読解がたやすいわけではないんです。18世紀の思潮に対してかなりのインパクトをあたえたひとなので。ヒュームの研究者のみなさんが視野におさめないといけない文献の幅って大変なことになりますしね。当時の教養人(哲学者から経済学者まで交友の幅はひろいですし。大体、一つの学問に押し込めることができないでしょ?)の相関関係のみならず、神学の知識や当時の歴史観など様々です。そして、イギリスの哲学の基礎にはなるんです。秩序というものの現前があるときに、それは理性を始原としているわけではなく、その秩序として形成されている諸々の観念といったものが相互的に関連付けされている、それはあくまで想像のなかでしか構造化できないのかもしれないけれど、そこに想定可能な諸原理のようなものを見出すことは可能であるということを論述しまくったひとになります。つまり、ドゥルーズが”affection”に言及するときに(「感情」という理解で正しいんですよ。ただし「変様」ではないんです。英語なので)、世界中のヒュームの研究者から言葉の使い方が雑すぎるってつるし上げにあうんだと思うんですよ。わたしは間違っているのでしょうか?再読するたびに、同じ発想にしかならないんです。