どれくらい興味がないかというと。

あまり範囲を広げすぎてもと思うので。たとえば、最近の英文学の動向には興味はないんです。

教育をきちんと受けてしまいましたし。自分でテクストを読んでいく能力は十分に鍛えられています。

オープンデータで論文は読めますし。

ある時に、こういうことがありました。先生が冊子仕様の本を取り出して、あげるよとおっしゃるわけです。え?いただいていいんですか?というか、何の論集ですか?と聞くと、同人誌とおっしゃって、そこに載ってる論文はダメだからねと念押しがつくわけです。

私が専門にしている作家の論文が掲載されているのですが、その内容では先生の理解は得られませんということです。

厳しいんですよ。同人誌ってなんだろう?きちんとした出版社なのにと思いながら、奥付をたどっていくと、実は数冊頂いているんですが、日本の英文学会の巨人であるX先生にたどり着くわけなんです。

同人誌なんておっしゃってることがばれたら、先生はX先生に怒られたりしないんだろうかと思ったりもします。

私は姿をお見かけしたことしかありません。

丁稚奉公のときに、著名な批評家が専門の作家をズタズタにした論文を書いて、しかも、その比較文学論の批評家はイズムの一大ムーブメントを形成していまったので、批評家が取り上げた作品で、論考ををそのまま鵜呑みにした映画まで作られる事態になっていたようです。興味がないので観ていません。一大ムーブメントが形成されて、時間も経っていました。丁稚奉公なので、勉強しながら悲惨な現実を知るんですよ。要するに明らかな誤読ということです。世界的に著名な批評家に誤読があるんですよ。公然の事実です。

愕然ですよ。

とある大学の先生が、いろんな修辞を駆使しながら、この姿勢はダメというのをお書きになった文章を読んで、あ、日本にもイズムに囚われず、良識を保ってくれる先生がいらっしゃるんだと安心したこともあります。

先生とお仕事一緒になさった翻訳書もあるし、勇気をもって話しかけてみようとしたこともあります。

凄く勇気をもちました。あの時ほど、頑張ったことはありません。

先生の名前を出すと、Z先生はあとずさりしながら、あー、先生のところの、とおっしゃったんです。

これ以上話しかけるのは止めてほしいということです。

先生はZ先生とお仕事を一緒になさったはずなのに、なんで、こんなことになっているのだろうと悩んだこともありました。

知らない先生に話しかけるのは勇気が要ります。そして、その機会は最初で最後になりました。

別の時には、NHKでいろんな著作を100分でわかった気になろうという番組で、Q先生が出演されていたのを、新聞で知り、途中の回を観たこともあります。

英文学自体がその番組に取り上げられるのもめずらしかったんです。

わたしには別の背景もあるのです。

とあるときに、先生に告げられたことがあって。(出身大学が)帰ってきなさいと云ってくるんだよと告げられたんです。え?どうしよう?P先生に出戻りになります、とお願いに行くことになるんだろうか?と思いながら、先生、帰るんですか?と伺うと、断ったけどね、とおっしゃってくださったので、当時とても安心をしたことがありました。指導教官がいなくなる事態が事前に回避されたのです。ただねぇー、帰ってこいっと云ってくるんだよーとおっしゃるので、適切な人員がいないから、お前が帰ってこいという感じが先生は嫌だったのかもしれないと思い、先生の気持ちが先方の大学に受け入れられてよかったじゃないですかとお茶を濁したこともあります。

あの時、先生が素直に帰ってらっしゃったら、この番組に出ていたということになるんだろうか?いや、先生がそもそも引き受けるわけがない、それにしても、英文学が取り上げられるなんてめずらしいし、きちんとした先生が受け持ってらっしゃるのだから、観ようと思ったのです。Q先生の著作はもちろん読んでいます。

番組を観ていると、Q先生が途中で、○○文学なんてっと吐き捨てるようにおっしゃっていて、え?何が起こったんだろう?え?全く理解が及ばない、どうしよう。怖いっ。なんだろう?知らないふりをしよう、それしかない、と番組の続きを観ることを止めたことがあるくらいです。

あのときくらい怖い思いをしたことはありません。

結構、散々な目にあっているので。最近の英文学の潮流には興味がありません。

正直、散々ですよ。

ちなみに私の先生と共訳書がある先生とは、実はとても仲がいいのです。仲がいいので、みんなで困ったこともあります。実は結構散々なんですよ。最近の英文学のなかでは、サイードの誤読もあるようですし。どうなんだろうって思っています。英文学ですら、適切な教育が受けられる場が狭まるというのは、残念なことだと思っています。学生の皆さんの責任ではなく、教育者の姿勢の問題でしかないと思います。現在も変わらないと思いますが、優れた先生は自己主張が控えめという、日本の英文学研究の流れそのものにはおそらく変化はないと思います。私が受けた時点では日本の英文学の教育の質というのはかなり高かったんです。私が教育を受けた先生方がSocial Mediaにかまけるかと考えるとまずありえませんし。ありえないです。大学から強制されていない場合は不必要でしょうし。優れた先生というのは、基本的にオープンですが、あ、今は邪魔してはいけないという時間を保ってらっしゃいます。当時、研究室に相談に行くと、先生がテクストや研究書(もちろん原書です。当然のことですよ)を開いて静かに読んでらっしゃる時間があったんです。その時は、邪魔はしてはいけない時間なので、また来ますーっとささっと研究室のドアをしめるのが礼儀だったんです。学生のみなさんは自分の先生はどうだろうか?と考えて見てくださいね。きちんとした先生は、まず、テクストの精読の姿勢は崩さないと思います。教育者の質を学生は選べないという苛烈さがあっていいのだろうかとは思います。

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