オリジナルの厳しさ。

学生の折に、叩き込まれておりますが。

オリジナルの視点でなければダメというのは叩き込まれました。

対象のテクストがありますよね。

短くってもいいですし、長編の小説でも構わないんですが。そこに言及するときには、オリジナルの視点を持ちなさいという指導を散々受けたんです。

他の受講者のみなさんのオリジナルの視点についても意見を述べなければいけなかったですし。

勉強については、徹頭徹尾、鍛えられあげています。

先生が書かれた論考のコピーを受け取り、感想を求められるくらいだったんです。

もう、誰も意見を言ってくれないのと先生はおっしゃっていて。本当なんですか?って思いながら、この小説はテクストになったことがないから読んでない、どうしようとなり、翻訳でお茶を濁して、後で、すみませんでしたって謝るという。

とある講義では発表形式だったので。発表して、終わりって思っていたら、指導教官の先生がたから信じられない方向から厳しい指摘をいただいて、容赦がないなぁーって思ったり。

そんな日常だったので、つまらない本を読んでつまらない気持ちを片手に抱えてうんざりする状況に陥った時に、一番、腹が立ちます。

なんで、こんな駄本を買ったんだとか。

それは原書の研究書でもあります。なんでこんな本を買ったんだろう?とか。事前に精査をしたはずなのに、読みやすいと思ったら、案の定だったとか。

わたしが学生の頃には、研究者に文体や文飾があったのですよ。

一見難解な本でも読みこなす訓練を相当しているのです。英語でも日本語でも。なんだろう、この難解な英語はとか。なんだろう、この難解な日本語はとか。基本的に、そこを読みこなす勉強に明け暮れていた感じです。

イギリスの研究書で好きな本があるんですが、本当に文体が凝っていて、読みこなすのに骨が折れるんですよ。パキッて。

日本語で読みこなすのが困難な文体に出会って、誤読かな?というときは、素直に、先生、これはどういう意味なんでしょうね?って、この部分とこの部分なんですけど、先生、この本は読んでらっしゃいますか?と、訊ける教育の環境下だったんですよ。

その代わり、先生にそれは興味が無いという応えをもらうとお手上げですが。先生が興味をそもそも持つことが無いということは、中身がないというのと同義だからです。

わかった振りがダメだったので。わからないと、自分の先生(複数形)にこれは何ですか?と質問をする素直さの持ち合わせがあるんです。それがないと、怒られるからです。

例えば、哲学のテクストがわからなくって、新書からはじめたりするでしょ?この本は読んだんですけどって伝えると。

なんで、あんなやつの本を読むんだと、頭ごなしの怒られるんですよ。お説教がやってきます。先生が、わかりやすいところから本を読みなさいっておっしゃったので、その通りにしたら、最初の本の著者の選択のセンスが無さすぎると怒られるんです。これから勉強しようとしているのに。

踏んだり蹴ったりでしたよ。

いろんな異見をもたないといけなかったんですよ。専門外のテクストに関しても。

なので、趣味で音楽の勉強とかしていても、応用が効きますし。

批評があっても、翻訳書があればそっちを読みたいと思うんですよ。何かについての論考よりも、翻訳書です。

批評の質が低いと、対象は哲学でもなんでもいいのですが、余計な邪魔なフィルターにしかならないんですね。

書かれた言葉って残酷なくらい嘘をつきません。文飾があろうがなかろうが嘘はつけないんですよ。書き手の現状をそのまま映すんです。内容がないときはそのまま内容がないですという反映になります。繕うと、繕っていますという内容になるんです。

実は、わたしは本を読むときに速度が非常に遅いということはなく、結構、読み進んでしまうんですね。

だったら、内容の不透明な批評よりも、批評が射程のうちに収めたがっているテクストのほうを選んでしまうんです。その言語が出来なければ、翻訳でも読みたいんです。

批評を読んでいて途中で気の毒になるのも嫌ですし。また、なんでこんなざるな思考過程を読まないといけないんだろうという時間がもう嫌なんですよ。

わたしが批評を読んでいた時の織物としての本の縫い目は繊細だったからなんです。

最近では、英語でも様々な論文をオープンソースで読むこともできるので。

便利になったなって思っていますよ。

本当に読む本ごと怒られていました。最初から知識を得ることなんて無理なんですけどね。先生に英語文献のこの批評は、と本を持っていくと、あー、ダメダメって、相手にもされないときすらありましたよ。なので、興味が無いものに関しては、無視です。時間の無駄だからです。セネカは書いていますよね。「ところがその間に、諸君の誰かか何かに与えている一日は、諸君の最後の日になるかもしれないのだ。諸君はいまにも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、いつまでもいつまでも死なないかのようにすべてを熱望する」って。そこまで貪欲ではないのですが。子供の時にセネカを読んだ時は、なんて吝嗇なひとなんだろうって勘違いしてましたけど。ちゃんとしなさい、ちゃんと考えなさい、君はちゃんと考えることが出来ているのか?自分を大切になさい、きちんとなさいって書いてますよね。読み方ですが。「人の生涯は始まったところから進んで、自らの歩みを呼び戻しもせず、引き留めもしないであろう。騒ぎ立てることもなく、自らの速度を促すこともないであろう。黙々と流れていくであろう。(中略)そして結局はどうなるのか。君は多忙であり、人生は過ぎ去っていく。やがて死は近づくであろう。そして好むと好まざるとを問わず、遂には死の時を迎えねばならない」案外、世話好きのいい先生ですよね。本は薄いんですが中身がありますよ。紀元前に生まれたストア派の哲学者ですが。ずっと、君はね、ちゃんとしなさいねって言われているような気がします。暴君ネロは、本当に暴君ですよね。キケロに対しては酷いですよ。

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