基準にしていること。

様々なひとが様々な基準を持っていると思いますが。

わたしにもあったりします。そうですね。自分の常識が他人の常識だと思わないとか。当たり前のことですけど。例えば、ラヴェルのボレロといえば、優れているのはチェリビダッケと考えるのですが。

その判断について他人に強制しようとは思わないんです。

世の中のあらゆるひとがクラシック音楽を好んで聴いているわけでもないので。

そこでお互いの常識として考える判断基準がずれるんですね。

なので、押し付けようとは全く思いません。基準って人の数だけありますから。共有はできませんよ。

そこは好き嫌いだと思っています。

それから、大事にしているのは知らない他者を消費しようとしない姿勢ですね。その姿勢がないからなんですが。

例として、Social Mediaの旧称twitterを使用していた頃の思い出を挙げます。

夕方になるとハッシュタグが立ち、このラジオ番組がいま注目を集めていますとトレンドに毎日挙がっていたことがあったんです。いまは知りません。

利用者のみなさんである程度共通理解があるのかもしれませんが、日本の旧称twitterって広告代理店が操作している可能性が高いんです。

ハッシュタグを追いかけて、発信している個々人を適当にチェックしてみるとその番組専用のアカウントを作っていて、番組時間内だけポストしているようでした。つまり、使用者の属性については後付けできたり、捏造することすら可能という状況です。

可能性の域を出ませんが、そのラジオ番組では子飼いの旧称twitterアカウントが複数あり、広告代理店の皆さんが複数アカウント使いこなして、そのラジオ番組がさもよく聞かれているように印象操作することは実質可能なんです。

仮のこの考え方が正しいとすると、視聴者の存在を無視して番組が作られて進行されている可能性もありますよね。

誰に対して番組作りをしているのかよくわからないことになります。視聴をしている層を無視しているということになるので。

つまり、消費を喚起する環境づくりだけされているので、ラジオ番組が放送されている空間がいびつになるんですよ。

仮に正しい場合は、視聴している視聴者ごと消費物扱いになります。変ですよね。

そんな空間がある場合は、共有したいとは思えないんです。理由は作為性にみちていて、オリジナルの発想も言葉もおそらくない可能性のほうが高いからです。操作性が高い構造ゆえにその操作性の闇に闇落ちしてしまうという。

判断基準が「作為性に満ちていて」、「他者を消費する姿勢」に慣れすぎていて、「自立した言葉の運用性も保てない」という状況があったら、気持ち悪いでしょ?

Social Mediaって種類がありますが。どれも基本的に消費喚起になるので、世界中でいろんなひとが利用することに疲れているんですよ。

興味が湧かないという時点で避けていいんですよ。

同調圧力に晒され続ける人たちの様子を知覚するって疲れますから。

距離をとっていいんですよ。

うんざりしているのに頑張る必要性はゼロ以下ですから。

同調圧力に晒されている皆さんって特徴的なんです。あらゆる言葉じりをとらえてそれが自分に向けられているように錯覚を起こすんですよ。

病んでるなと思いますが。当時はかなりそういう印象をもっていました。

広告代理店としては、運営しているラジオ番組の自律性を担保しようとしているんでしょうが。操作性と作為性まで誤魔化しが利かないので、その空間ごと病むんですよ。

すべてのラジオ番組でそのようなことが行われているわけでは、もちろんありませんよ。

ただし、他人を消費しようとする空間として、Social Mediaは構築されがちですし。

それで疲弊するので、距離はとったほうがいいですよ。

ひともあなたもわたしも消費される情報ではありませんから。

自分と他人の区別は存外大事になります。

ひとを大事にできるこころは持ちたいですよね。最近ではスマホに注視しているひとだらけという風景も場所によっては激減してますしね。出先で、ご家族が仲良さそうにベンチに腰掛けて笑顔でお話しなさっている風景をみかけて、消費がターゲットのSocial Mediaだから、消耗されて、他人に顧みられなくなるまではやかったなって思ってます。ずっとスマートフォンの画面だけに釘付けでという風景のほうが奇妙だったんですよ。世界中のひとがきっと同じ感想なんでしょうね。

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