専門をもっているくらい教育で強かに躾けられていますが。
ついた先生方から、徹底的に植え付けられたのは、イズムと距離を取りなさいという姿勢です。
いろんなイズムがあると思いますが。
わたし自身は英文学プロパーとして育っているので、全く迎合しません。

必須な姿勢はテクストの精読ですし(小説をものすごく精密に読んでいく読み方です、再読も不可欠です。OEDと首っ引きにもなりましたよ)、これ以上の教育の余地がないくらいに教育は受けましたから。
イギリス文学っていろんなイズムがあるんですよ。
何を信頼するかというと政治化のプロセスに安易に転用できない論考です。
分かりにくい説明になりますが。歴史としての通時的な概観のプロセスを経ていないので(議論自体よする立脚地が一方的な磁場にからめとられた挙句、史学の視点において誤謬の誹りをまぬかれないようなケースもあります)、政治化されるような場所に持っていけない論考ではなく、そのような危機にあう手前で、通時的ないくつもの議論をおさえながら、それを丁寧になぞる場所で生成している論考になります。
正しく言及すると、政治化のプロセスをきちんと辿っている論考になるのですが、歴史の修正主義には迎合しない論考になります。未来に向けた歴史の修正主義にも迎合しない論考ともいえます。
未来に向けた歴史の修正主義というのは、現状の歴史的なプロセスにおいて段階を経た議論の場を十分に持たずに、主に扇動だけを目的としている修正主義的な姿勢になります。
戦争も含めて本当に修正主義って、現代における時代の産物(?)というくらいです。修正主義は横行していますよ、実際に。
通時的という言葉がしっくりくるくらいの精査は受けないと信用はできません。みっしりしてないとダメですよ。

現在の日本の英文学プロパーの研究者の先生方でソツィニ主義(現代ではソッツィーニ派と翻訳されます)に詳しい先生がいらっしゃるのかどうかよくわかりませんし、英国でもそんな先生いらっしゃるのかな?って思ったりしますが。
例えば、英国のキリスト教と哲学を結ぶ結節点では、とても重要になるんだそうです。
わたしの専門は異なるので概観で終わっていますが。
ソツィニ主義(ソッツィーニ派)だけで、どれだけ文献を漁らないといけないんだろうって思うんですよ。
辛いですしね。ソツィニ主義は単にイズムの例として例示で挙げただけですが。
ソツィニ主義だってイズムだと思いますよ。現代批評とレベルが異なるだけの話です。
漁る文献を何冊も読んでいると現代のイズムの浅はかさというのに、うんざりしかしないんですよ。現代思想のイズムって、そこまでみっしりしていません。

わたしの専門もよくイズムで読み解かれたりします。そのまま、失敗作ですという読解と議論にしかならない、イズムが全く歯が立たないという、ある意味苛烈な作家なんですが。
それは無理だろうなって思うんです。
専門だから、ものすごくよくわかります。
あ、失敗作だって。論考ごと失敗しているって。
そんなことひとことも描かれていませんとか、拡大解釈でしかありませんとか。
また、テクストとして精読には耐えるんですが。精読のテクストでもかなり読み解かれ尽くしているので。新機軸はむつかしいんです。新機軸として打ち立てようとすると、テクスト自体が、あ、またまた失敗を重ねていますね。そんな読みは成立すらしないでしょ?と、書かれているそばから、いろんなものをひっくり返していくという。
真面目に読み解こうとする姿勢しか受け取ってくれないテクストなんですよ。
いままでも、いろんな屍を読んできましたから。もう、屍なんて読みたくもないという。
累々と勝手に重なっていく、テクストに打ち砕かれた屍の山は、案外、気の毒なんですよ。
なんで途中で気付かなかったんだろう?って。
土台無理なのにって。

わたしがそのテクストを読解しながら、頭を抱えるのは、実は、Samuel Taylor Coleridgeです。Coleridgeを楽勝だと思える教養がないんです。残念ながら。いつでも、むつかしいと頭を抱えてしまうんです。
コーリッジの”natura naturata”なんて、すごくむつかしい概念なんです。英国の研究者によると、いろんな人々が模倣するのは”natura naturata”という生命活動のない、静止した世界ではなく、”natura naturans” という生命を内に内包していて、その生命を展開しようとしている、世界になるのだそうです。
原初の状態って英国の思想史のなかでは、時代によってその概念が変わるみたいなんです。
そういう文献を読んでいると、イズムって何が楽しいんだろう?としか思えないんですね。
ご都合主義みたいな印象を受けるんですよ。
強かな教育を受けると反応は正確になりますよ。