わたしは専門分野をもっていて、知識はあります。
ただし勉強不足でしょうがないなと当時から反省していた、なかなかテクストを読もうとしなかった文人がいます。
有名な登山家であり、Dictionary of National Biographyの編集主幹としても有名なLeslie Stephenをして、「アン女王時代のマシュー・アーノルド」と称された第三代シャフツベリー伯です。Anthony Ashley-Cooperです。
読まないといけないなと思いながら、学生のときには勉強の山に紛れて読まなかったという。
不勉強ですよ。恥ずかしいですよ。知っていますよ。

近年では翻訳もあるそうですが。出版社を通さずに、Amazonで直接販売なので、中身の質がわかりません。実はちゃんと手続きを踏んで調べると無料でダウンロードできます。大丈夫なんでしょうか?複数の研究者によって、テクストの部分的な翻訳も試みられています。
それ以前にわたしは英語を読むことができるので、よまんかいっという。なぜ、勉強しないんだっという。
テクスト自体は無料で読むことができるので、今年は少しずつでも読もうかなと思っています。
実際は、そんなに時間をかけなくても読むことができるんですが。
カントが高く評価していたり、ロマン主義の先駆としてドイツでは認知されていたひとになります。
多分、わたしが好むタイプのテクストを書く文人なんだろうなとは思っています。好むタイプであって、全面的に是認するかというと話は別ですが。
Leslie Stephenの評価は正しいのかどうかというと、議論の余地はあるそうですよ。
第三代シャフツベリー伯は言及するわけです。わたしの翻訳だとたどたどしくなる可能性もあるので、文献から引用したものを掲載します。
世界でもっともつまらぬものでさえ、秩序の姿は精神をとらえ愛情をそれに向けさせる。それでもし世界の秩序自体が正しく美しいものに思えるなら、秩序への賛美と尊敬はいよいよ高まり、徳にとって非常に有益な、美に対する優雅な感情、すなわち愛は、これほど広大かつ崇高なものに対して働くとき、なお一層高められるに相違ない。なぜならかかる神々しい秩序は、陶酔と歓喜なしに眺めることは不可能であるから。というのも学問や文芸のありふれた科目であっても、正しい調和と均衡にかなっているものはなんであれ、その種の科目に少しでも知識をもち熟練しているものにとっては、まさに心を魅惑するものであるから。
An Inquiry Concerning Virtue or Merit
シャフツベリーは当時の時代性として、洗練された学識ある時代には受け入れがたい、不合理な信仰心や信仰のありかたというものを当時の宗教観から一掃したいという志向性をもっていたそうです。
当時の保守的な政治性に対するむつかしい姿勢の反映もあったそうですが。細かい言及を続けると、多分、読んでいる皆さんは??となるので、省略をします。
シャフツベリーが生きた時代の宗教観は複雑なんです。イングランドのキリスト教が大きく揺らいだ時代でもあって、狂信的な信仰のありかたというのに、いろんな人がうんざりしていて、もうちょっと理性的な判断で、イングランドのキリスト教観というのを再考できないだろうか?という志向性が時代ごと貫いていたそうなんですよ。
ちょうど名誉革命があるんです。イングランドで。いわゆるクーデターです。カソリックと後の国教会の争いが耐えなかったんですね。イングランドでは。それで、クーデターで国内の秩序回復を図るんです。2013年の王位継承王の改正があるまで、イングランドの王室からは徹底してカソリックが取り除かれていたわけです。
それくらいに、もう国教会としてイングランドでのキリスト教観を打ち立てていこうという機運が高まるんですね。
その最中の文人になるんです、シャフツベリーは。
神の啓示として現れる宗教観というものを、プラトン主義を援用しながら、書き換えていくんです。イングランドの国教会は。神が報復的で無慈悲で、嫉妬深く気まぐれであっては困るそうなんです。だって、秩序がないので。だからこそ、書き換えられるんです。
緻密に書き換えられる時代性の一翼を実は担っている人なんです。

英語の”virtue”という言葉は、ある意味、シャフツベリーの時代にシャフツベリーによって、手続きを踏んでこの時代に新たな意味を付加されているんじゃないのかな?って思えるくらいなんです。
奇跡とか狂信とか、それでは、イングランドのキリスト教観に似つかわしくないから、きちんと、”goodness”(日本語にすると「善」です)の中身を精査したり、本当に努力を尽くしています。
無神論者でもよくない、汎神論者でもよくない、落としどころを手続きを踏んで考えようとした人です。神々っていうけど、単数形なの?複数形なの?どうなの?っていう。
いったい、イングランドのキリスト教観における秩序というのはどこにあるんだろう?というところで文人として活躍するんです。
歴史の緊張状態は落ち着いたから、そろそろキリスト教観においても、イングランド人的な理性的な受け止め方が出来てもいいんじゃないの?という時代性が、名誉革命の後に訪れたそうなんです。
シャフツベリーが文人として頑張った17世紀から18世紀にかけての時代性が、イングランドの文学のロマン主義の核心部分に生きていたりも実際にします。
勉強不足だなーって思ってますよ。
シャフツベリーの時代って政治観も宗教観もそれぞれの立場が明らかになりながら、狂信的になるのはちょっとねという落ち着きが現れるんです。政治的な姿勢のとりかたについて成熟があるんです。時代の努力としてそれが行われるんです。自然のありかたは神の映し絵になり、人間は、「存在の大いなる連鎖」のなかできちんとした位置をしめるという志向の基礎が立ち現れるんです。ラヴジョイは20世紀のアメリカの学者になりますが。そして、シャフツベリーの思想はロマン主義の基礎の土台まで担うという。イングランドって頑丈なんですよ。日本でもある意味クーデターは起こっています。大政奉還です。江戸時代が明治時代に入ると別の国になっていきます。制度設計ごと違う国になるんです。王政復古になるので。そこで、当時の国学者が、日本の神学である神道の書き換えをしたんでしょうか?詳しく知らないんですが。どうなんでしょうね?江戸時代の国学者は復古神道という再定義を行おうとしましたが。明治期に再定義って何かあったんでしょうか?それとも明治にはいると江戸に皇室を作らないといけないので、粛々と京都から制度設計が再定義としてもちこまれたのでしょうか?後者が正しいとすると、一般にはなかなか公にはなりませんよね。だって、宮内庁の独壇場ですし。宮内庁には、日本の内閣府も勝てないからです。