ドゥルーズについて、わたしは結構冷酷なんです。『経験論と主体性: ヒュームにおける人間的自然についての試論』については翻訳の著作の単行本を持っていますし、再読を何度もしています。ヒュームについては専門ではないんですが、必要があってきちんとした姿勢をもって勉強をしていたこともあるので、ひどい誤読の嵐になっていることぐらい気づかないわけはないんですね。
誤読はダメという教育環境で育成されたので、その点に関しては譲りません。
一切、認めません。
ヒューム研究で、ドゥルーズの指摘が意味をもつかというとおそらく全く持ちませんし。ドゥルーズのヒュームについての指摘は鋭い、正鵠を得ているなんて発言をするヒューム研究者はいないと思います。おそらく能力と常識を疑われると思います。皆無だと思います。
育ちは今更変えられないですし。
無理です。

あるときに、気が向いて気まぐれに購入していた『差異と反復』を再読していたんです。
何度目なんだろうって思いながら。
そうそう、導入する哲学者にそれぞれ言及をしながら、誰もこのような読み込みをいまだかつて誰もやっていませんが、私はこのように読み込んだからこそ、議論を先に進めますという感じなんだよな。というか、ここは誤読になっているでしょ?駄目じゃないって、誰からも指導も助言もない状況の連なりの学位論文になってることになるのかな?それって、ある意味、悲しいことかもしれないよなって思いながら読み返していました。
次々とこの哲学者の思考を導入しながら議論を進めますと言及しながら、その哲学者の専門領域の議論からは一顧だにされない読み込み方で、ある意味独善的な着眼点で議論が推し進められるのだから。
ドゥルーズって孤独なのかもしれないって。

ライプニッツの専門領域からは、ライプニッツはそんな指摘は全くしていませんっとか、スピノザの専門領域からは、どこにそんな指向性の萌芽があるのかご指摘願えませんでしょうか?とか、ライプニッツとヘーゲルのその点に関しての比較ですが、具体的な説明はいただけないでしょうか?とか。
それぞれの専門の国際会議に出席した場合には、きっとつるし上げにあうんだろうなって思うんです。
ドゥルーズはきっと。
ヒュームで壊滅的なので。他も無理だと思っています。
ドゥルーズの解釈が独自路線すぎるのかもしれませんよね。
本を読むのがしんどくって手が伸びて読んでいるんですが。案外、なんでこんな考え方になったんだろう?一部はわかるような気がするけれど、わかるような気がするだけで、その気持ちの立ち戻る場所がない、どうしよう、ドゥルーズによるヒュームの論考には興味がないし、誤読の山なりに付き合う余裕はないし、それでもなんだか時間つぶしにはいいのかもしれない。
よし、夜の不眠対策にドゥルーズを読もうっということで、読んでいます。
本棚をさらっていると、宇野先生による概説書が出てきて、購入してたっけ?と驚いたんですが。
そういえば、読みながらあまりに文体が平易で落ち込んだことを思い出したんです。ああ、文体がってショックで途中で読むのをやめたのかもしれない。なんて、珍しい。よっぽどショックだったのかも。宇野先生の評論集を大事にしてるから。それでも講談社選書のメチエの性質を考えると概説書だから平易な文体なのはしょうがないのかもなと、読んでいると、宇野先生ってドゥルーズの指導で論文書いたんだ、すごいなぁ、とか。わたしはアルトーが苦手なんだけれどなー。鬱の再発を乗り越えると「狂気」なんて正直どうでもいいし、価値すら見いだせないし。
そこは個人差かも。

もともと、ドゥルーズの何を読みだしたとかではなかったんです。ドゥルーズ=ガタリが最初だったんです。文学批評にも取り上げられていたので。頑張って読んだんですよ。手持ちの書籍もあるくらいです。そこからドゥルーズを読んだり、ガタリを読むと、共著とそれぞれの著書でまったく別の著作になるのがよく理解できたんです。どういう共著の在り方なのかはしらないんですが、ガタリが駆動する力動をドゥルーズが整理した感じなのかもという一方的な感想を持っています。ガタリの本ってガタリがひとりで掃討していく機械のようになっていて、ドゥルーズの著書は『差異と反復』がそうであるように、比較的抑制が効いているんですね。たまに、あ、導入する哲学者の思考にいら立っている箇所だっというところもあるんですけれど。ドゥルーズが治療していたというのは言い過ぎかもしれません。ガタリだってへこむときはあったと思います。むつかしいことに挑戦をしていたわけですし。ですが、共著になるとかなり開かれた内容になるっているというのは宇野先生もお書きになっていますし。
まぁ、共著は共著なんだと思います。作業効率がお互いによくなればできることなのかもしれませんしね。実際に共著は続きましたし。ラディカルなのかもしれませんし、ポジティヴなのかもしれません。
ちなみに、ドゥルーズについての解説書については宇野先生の本でいいと思います。文庫になっているので手に取りやすいはずですよ。ほかの本を先に読むとおそらく失敗する可能性もあるかもしれません。ほかの概説書は読んでないので内容の質自体はわからないんですが。宇野先生はそこは外せないという論点をいくつも挙げておられます。例を挙げると、ドゥルーズの閉じた形としての精神分析に対する鋭い問題意識です。「ところが精神分析は、無意識という多様体を、家族の三角形という平坦な表彰に閉じ込めてしまう」という議論です。
精神分析って深遠な視点があるような誤った印象を与えるんですが。良くも悪くも人間一人が抱えているさまざまな表層を、家族に還元してしまい、閉じてしまうんです。赤ちゃんが何かを口元にもっていってしまうのは親の代理だったりという精神分析でしか通用しない独自の世界観です。実は生まれてから発達していくのがまず、口になるので確認する先が口になるだけなんですが。赤ちゃんは視野もきちんと確保できませんしね。足元が危ないからつま先で足元を確認するという行為は赤ちゃんには不可能です。赤ちゃんが口元にもっていくおもちゃに社会性をもたせないで、安定した家族の三角形のなかに閉じて議論が終始するんです。精神分析ってわかりやすさに終始するんです。むろん、昨日の赤ちゃんと今日の赤ちゃんは同じではないですし、同じではない赤ちゃんのこころの解釈は主にご両親にゆだねられてしまうんですよね。ご両親の解釈を通した赤ちゃんの像を精神科医は受け取ります。実験の場合は直接介入だとしても、親御さんの腕の中の赤ちゃんだったりもします。赤ちゃんだけはむつかしいので。ただし、現実の赤ちゃんを取り囲む環境というのは安定した家族の三角形のなかに閉じ込められるものでもないんですね。赤ちゃんが口元にもっていくおもちゃを選んだひとは誰なんだろう、どうしてそのおもちゃを選んだんだろうという文脈を読み込む余地はあるんです。ご両親が選びそうにないそのおもちゃがなぜお気に入りなんだろう?とか。そして、そういう点はことごとく除外される傾向にあります。赤ちゃんは両親の外の世界と接触可能なんですけれど。精神分析の議論のなかでは除外されるんです。ベビーカーに乗って、赤ちゃんは開かれた世界に対して興味を示したりしているんですけれど。その接点ごと精神分析の視点はカットしてしまうんです。
むつかしい議論を扱えないんでしょうね、きっと。
赤ちゃんと他者として扱えないのに、より複雑な思春期の子供をどうやって他者として扱っているのだろう?という。事実誤認も少なくないのかもしれませんよね。
ドゥルーズはフロイトに目配せをしているようで、実際の目配せの先は明らかにニーチェですから。しかも独自読解のニーチェです。ヘーゲルはどうなんだろうって思っています。
そして、自著におけるドゥルーズなりの誤読の仕様に関しては、ドゥルーズが自覚的だったようですし。そうすると、誤読の在り方がどのような誤読だったのかを読むほうが早いんだろうなって思ったりもします。

ドゥルーズという哲学者の単著があり、ドゥルーズ特有の誤読が各テクストについて行われた軌跡まではわからないんです。近所に『差異と反復』の注に記載がある本が網羅的にある場所もないので。調べるとドゥルーズによる各テクスト、各哲学者についての誤読の論文が翻訳で比較的手に入りやすい状況なので。全部読むつもりはないですけれど。
誤読の山なりを先に読んで、ドゥルーズがテクストを誤読するときの癖のようなものに触れたほうが早いのかもなって思っています。
自覚的に「誤読」しているのなら、なおさらですよ。
専門で研究している先生や学生の皆さんは大変なんだろうなって思います。
堅牢というにはほど遠く、独自の言葉を作るときに語感に対してセンスがあるわけでもなく、ドゥルーズの好き嫌いで否定神学のような二つの極の存在は全面的に忌避されて、ひとつの極の生成のはじまりから、時間の概念を取り入れたさまざまな動性の運動のありかたを、その思考が多発的に発生する瞬間を読み解かなければいけないのに、背景におかれる様々なテクストについては、ドゥルーズが故意に誤読しているので、論拠になるようで、まったく論拠にならないという。動的なのに抑制的な筆致なのでうっかりすると、ドゥルーズの「誤読」の読解の渦のなかで、路頭に迷ったりするのでしょうし。
つまり、自覚的な誤読の連なりのなかに、ドゥルーズが打ち立てる着想のような思考の立ち上がりの連続体を読み込まなければいけないので、寄る辺がないんですよね。
デカルトが言及されていても、どのデカルトなんだろう。あのデカルトなんだろうか?本当にあのデカルトなんだろうか。デカルトを装ったどの部分のドゥルーズなんだろう?デカルトのどの部分を独自読解しているのだろうか?って調べないといけないんだろうなって。
ドゥルーズがたくさんの仮面を上着の伸縮自在なポケットから取り出しては、とっかえひっかえするのに付き合うのって大変そうだなって。
わたしは不眠対策に読むだけなので。
気が楽なんですけどね。
正統派の哲学とは到底呼べないので、お気の毒だなとは思います。
実際にドゥルーズの哲学を解体して、素地をなぞりなおして、読解していくって、手間だと思います。文献についてはすべてが翻訳されているわけではないですし。専門のみなさんは最終的にはフランス語文献やフランス語訳された文献にあたる必要性がありますしね。
幸いなのは、ドゥルーズが理解するのはフランス語のみで、英語とドイツ語に対しては完全に中途半端であるという事実でしかないですよね。語彙のニュアンスの問題もありますが。ヒュームの英語でもニュアンスはありますからね。ただし、ヒュームのテクストの注釈の網羅についてはすさまじいんです。ヒューム研究者の日々の研鑽ゆえなんだと思います。
尊敬しています。
ヒュームの文献を読みながら(テクストと翻訳を突き合わせて読みました)新訳はむつかしいんだろうなって思いました。頑張る研究者のみなさん、陰ながら応援しています。テクストでも注釈がすさまじいんですが。どうなるのでしょうか?手持ちはOxfordの版です。河出文庫の翻訳については、翻訳者の先生がドゥルーズに直接質問をして注をつけてらっしゃいます。ドゥルーズに質問をしたうえで注をお書きになることができるのなら、なぜという注解にもなっています。ドゥルーズに回答をもらってお書きになった注とそうでない注が綯い交ぜになっています。どうしてこの箇所は質問がお出来にならなかったんだろう?注なのに、翻訳者の推察で埋め尽くされる注もあるという不思議な翻訳書だなって思ったりもします。それでも夜にこんこんと読むにはいいですよ。時間をたっぷりとっても普通のスピードで読み進められないんです。再読だから、いつもだったらもっと読み進めらえるのに。どれだけ気力がないんだろうって、気力がほしいのにって思ったりもします。減薬中なのでしょうがありませんが。ヘーゲルがというときにヘーゲルの著作を完全に無視しているわけではまったくないですし、それはニーチェについても同様で、どういうスタンスで読み進めていけばいいのか、毎回わからないという。気力は使うので、ちゃんと睡眠にはつながっています。