耽溺しないように。

Social mediaに関してはそういう状態になるのを避けるようにしています。

数年がかりの嫌な記憶もあれば。

避ける方向性に舵をとるのはしょうがありませんよ。

我慢強いほうなんですけれど。

嫌な気持ちが重なると、もういいやって思いますよ。

本を読みながら、ドゥルーズだったらsocial mediaをどういう風に使うんだろう?そもそも使うんだろうか?使うかな?とか。

ドゥルーズはゴダールと同じ時代を生きていましたが。

ドゥルーズはもう亡くなって存在はしていない時間を、私が映画を観ることを遠慮しているゴダールは生きていたんですね。映画はもう撮っていなかったけれど。Social mediaで、質疑応答ほどの小難しさはなさそうなインタビューみたいなものに応えていたり。わたしはそもそもなんでこの映画監督を忌避しているんだろうって悩んだり、理由を思い出したり。フランス語はよくわからないんですが。みてたんです。

みながら、それでもこの人が作る映画は観ないことにしたんだよな。人柄と映画は違うのかもって思ったり。

そして、social mediaで、なにか写真のようなものは見かけたんです。iPhoneで加工でもしてるのかな?って。

相変わらず、この監督はセンスの塊でしかないんだって。

ゴダールが使いこなせていたかどうかは別として使っていて。それでもドゥルーズがsocial mediaを使いこなしているイメージは想像すらできません。

『差異と反復』のなかでプラトン主義を滔々と読み替えていくんですよ。「プラトン主義は「ものそのもの[本物]」ともろもろの見せかけを区別しなければいけないアイディア」に憑りつかれている(?)ようにドゥルーズにはみえるらしく。

「プラトン主義の転倒の意味は、コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、映像に対する模範の優位を否定することである」というのがドゥルーズの考え方です。そして、対峙させようとしているのはニーチェですからね。プラトン主義と比較するとそこまでニーチェのアイディア自体にインパクトはないんですよ。プラトン主義に拮抗はできません。プラトン主義のインパクトは時間軸にすると遠大なはずですし。ニーチェだけでは弱いんです。かなり、弱いです。プラトン主義に拮抗できる歴史観の背景をもった哲学としてのインパクトはもちようがないんですよ。ニーチェ単独では。ニーチェが気の毒ですよ。そこまでいろんなもの背負わすのは気の毒です。ドゥルーズって案外歴史観という視点が欠如していますよね。

どうしよう、ドゥルーズがsocial mediaに耽溺する可能性があったら。

えーって。

勝手に愕然としたり。

使い方なんでしょうけれど。

本を読んでいる方が楽しいって思いだすんですよね。

いろんなひとのその都度の言葉に触れてみるのもいいのかもしれないんですが。それはその都度の言葉で、ひとの考えは変わるものだし。

息抜きにぼんやりとみるだけにしてあります。安全地帯での活用方法です。

怖いものについては、知らないふりをしようってなっています。

実際よくわかっていませんし。

めんどくさいって思ってしまい。そもそもって考えると。逃げちゃえって思いますよね。逃げますっ。本を読むほうが楽しいからです。

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