読書はあくまで睡眠につなげるものになっています。最近の読書はそうですね。
がりがりと勉強をして眠れていた日々が懐かしいですよ。
2時間くらい歩くと睡眠がとりやすくなるのだったら、毎晩歩くんですが。神経が立つだけだったり。
語学の勉強をすると夜眠れますよというのだったら、がりがりに勉強をするんですが。脳は興奮状態になりますし。
できないことだらけの現状です。

なんだろう?この八方塞がりな感じはと思いながら。ドゥルーズを読んでいたりします。
再読の度に気になる箇所はあります。この当時のフランス哲学では新プラトン主義のことはプラトン主義と記述するのが通常なのかな?とか。イギリスだと新プラトン主義の記載になるんですが。
フランスがわからないとか。
わたし自身がかなり不勉強な自然法に関しては制度設計としてはローマになります。イギリスはローマ帝国の辺境も辺境に位置するんですが。イギリスの場合、ローマの制度設計の残滓があるんだそうです。自然法のアイディアとしては新プラトン主義です。12世紀ごろにローマの法制度が入ってくるんだそうです。理由は教会法です。イギリスの宗教史って本当にむつかしくって、むつかしいんですが。イギリスは二重にローマが残余するんです。わざわざ導入してまで残すんですよ。辺境だからそんなことが起こるのでしょうか?そこまで時代がさかのぼると全くわからないんです。13世紀には個々の法的拘束力のある文書が実際に存在して、それが延々と保存されていたりもするそうなんです。イギリスって案外と公文書の国になります。15世紀ごろには”Inns of Court”が整備され始めるそうです。自然法と”common law”は実際に地続きな側面もあるそうで、15世紀に“common law”の判例集が編集されて出版されるんだそうです。16世紀には裁判所の整備がイギリス全土であるんだそうです。ドゥルーズが言及しているスコトゥスなんて16~17世紀にわざわざフランスで掘り起こされて(?)もいます。
イギリスの法整備ってむつかしそうだなって思うんです。詳しくないのでわからないんですが。

ヒュームの時代ももちろん自然法の磁場が存在をする時代性をもっていて、それでもそれはイギリスによる様々な形での自然法の解釈のもとに、実際の法整備に落とし込まれる長い歴史を経ての当時の現実だったんだと思うんです。そして、ヒュームは自然法の援用を考えたはずです。
ドゥルーズの「自然と社会は解体しえない複合体を形成するからといって、社会を自然へと還元することはできないのであって、わたしたちはこれを忘れるわけにはいくまい」という読解は誤解を招くんじゃないのかな?って思ったりもします。「ヒュームによって主張されなかったことは確か」なら、記載する必要性がないですし、もうちょっと端的にまとまるはずで。
ロックを否定はしていないんですよね。ヒュームは確か。イングランドは公共の考え方があるので。ロックだと政治を行うその正当性という議論になるのかもしれませんが、ヒュームはそれを公共の方向に押し広げていくみたいです。ヒュームだけが”virture”を重要な価値観だって思っていたわけではなく、18世紀の文人は”virture”をひとつの価値観としてとらえるのは、どちらかというと当たり前なんです。ヒュームみたいに自然的な徳、人為的な徳と論じ分けるところにヒュームらしさがあって。人柄が出る部分が自然的な徳になりますし、実際に社会で機能的に発揮される部分が人為的な徳になりますし。

ドゥルーズが「道徳と自然の差異、あるいはむしろ道徳と自然との不適合が見てとれよう。道徳的世界が実現されるということは、ひとつの全体、ひとつの社会が構成されているということであり、ひとつの不変のシステムが成立されているということである。道徳的世界の現実性は、自然的なものでなく人為的なものである」って書くときに、記述を細かくしないと誤解を生むかも?って思うんです。仏訳がわからないんですが。”Artificial”は人為的という意味ですが、負の意味を直截に帯びているわけではないんですね。最終的には道徳律なのは確かなんですが。それが18世紀のイギリスの社会性なので、それを功利性って言いきってしまうのは、誤解があると思うんです。
むつかしいですよね。20世紀のフランスの哲学者に18世紀のイギリスの自然法のありかたとか公共のアイディアとか理解を強いるほうが意地悪なのかもしれないんですけれど。
誰かに責めたてられたこともあったのかもしれませんよね。
論文としては受理されたのかもしれないのですが。その前に詰問をされたのかもしれませんし。
指導教官の先生方にきちんとした指導をしてもらえなかったのかもしれませんし。
ドゥルーズだってこの学位論文が、まさか日本で翻訳されて文庫にされる未来なんて想像できなかったのかもしれませんし。
イギリスの自然法を学ぼうとする人はイギリスの文献を漁るんだと思います。
そして、自然法の存在は神学の存在と地続きになりますし。例えば、ロックは信仰をとても大事にしますけれど。それでも、ヒュームは無神論者ではないんです。宗教の迷信じみた部分や頑迷な部分が苦手なんです。奇跡なんて、おかしいって思っているだけです。巷にあふれる頑迷な宗教観は常識的な判断(”common sense”は理性に裏打ちされているのが18世紀です)を超えていくべきなんだって言い切るひとです。短絡的に無神論者ととらえるとヒュームの理解は失敗すると思います。理性が万能ではありえないと考えたヒュームですが、理性に照らされた”common sense”は大事にしているはずなんですよ。まず、18世紀のイギリスの知識人であるという前提が必要になるんです。舌鋒鋭いのは確かなんですが。スコットランドの宗教観に対してなのかな?とも思います。イギリスの宗教観って一筋縄ではいかないむつかしさが実際にあります。むつかしいんですよ。完全なる無神論者だったら”common sense”とはいいださないとは思います。
18世紀の文脈に17世紀の文脈の地下水脈が流れているので。文献によるとヒュームは文体に関してはきちんと練っていたそうです。つまり、公の批判は巧妙に避けているそうです。
18世紀の文人にはある程度いきわたっている道徳観というのが、イングランドの場合は特にあります。ただし、スコットランドではむつかしかったのかもしれません。国が違うと宗教的な土壌が異なるからです。ただ、スコットランドに疎いので何とも言えないんですよ。細かいところで取りこぼしが多すぎるんです。わからない部分がかなりあります。
がりがり勉強できないので、どうなんだろう?って悩んで終わるんです。
なんだろう?この中途半端な気持ちはと思いながらも読んでいます。
なんだろう?わたしの勉強不足はって思いながらも読んでいます。
フランスのポストモダンと、イギリスのポストモダンは言語も文化も違うので、きっと違うんですよ。
それに『差異と反復』にもあるように、ドゥルーズはサイエンスフィクションのアイディアが好きなんだと思うんです。
同じ土俵で考えるとむつかしいのかもしれませんよね。
ドゥルーズを勉強する皆さんがどれくらいいらっしゃるのかわからないんですが。スコトゥスを翻訳にしておいたほうがいいと思うんですよ。ドゥルーズが読んだのはOrdinatioですが。英語の翻訳があるので、ラテン語頑張っていますというどなたかが翻訳とか無理なんでしょうか?無理なんでしょうね。やっぱり。ラテン語ってむつかしそうですもんね。トマス・アクィナスは文庫になっているのに、スコトゥスなんてどうでもいいんだよ、あんな奴という扱いなんでしょうか?どうせ、スコッツだろ?という感じなんでしょうか?たまにフランス語の勉強もしています。もうね、気晴らし程度なんで。たかが知れていて。これは勉強とは呼べないという段階です。大変お恥ずかしい限りです。本能が機能不全ってつらいんですよ。時間を濃く使えないんです。みじめです。