雑然と読んでいるので、整理はしていないんですが。
わたしはロラン・バルトが好きなんですね。悩んだりして、どうしようって思うと、ロラン・バルトの著作を読みながら、文体を読み解きながら、相談することもあるくらいです。
バルトの写真を見る視点というのはオリジナルです。

この写真は1877年のコヴェントガーデンで撮影されたそうなんですが。 John ThomsonさんとAdolphe Smithさんによって。1877年に、Street Life in Londonという写真集が出版されています。
静止している複数の男性が映っていますよね。
バルトによると、映像と異なり、写真には未来が映り込む余地がないそうです。
時間の流れの一瞬を写真は切り取るんですが。そこには過去が映り込む余地はあるんですが。未来に向けては動きが内包される余地がないので。
時間が堰き止められた瞬間が写真になるそうです。
バルトは身も蓋もないんです。
写真が撮られた瞬間は焼き付いていても、そのあとの写真に写りこんだ複数の男性の表情や行動は、写真をみているひとからは予想だにできません。コベントガーデンの複数の男性以外のひとが写真で切り取られた箇所以外にもいるのは映り込んだ影で理解できます。写真では、影でしか存在していないひともその場にはいるということです。
実際に、わからないからです。
バルトはフィルムで撮られた映像のことを思い描くんです。フィルムの映像はコマ送りになっています。
写真のフィルムと構造は似てますしね。

別にバルトは写真を映像に比して特権化しようとしているわけでもないですし。
写真に時間の映り込みをみようともしていますし。映画を観に行って退屈しても目を引く場面があれば、熱心に見たそうです。
ただ、映画には自然とさまざまな文化的記号がまとわりつくので、そこに幻想を読み込む余地はなく、映像の錯覚であることに気づくのみという。
ドゥルーズにそこまでのきめの細やかさがあるんだろうか?とも思うんです。
あるのかな?って。
どうなんだろう?って。

イマージュには運動性があって。ドゥルーズなので運動性があるんだと思います。
時間はどのような立ち居振る舞いを強いられるんでしょうね。
記号を理解するときに、イメージのずれを考えないといけないじゃないですか?
イヌ科の最大の大きさを誇っているのは、オオカミなんですが。オオカミって何?という文化圏にお住いのひとだっているはずなんです。
「オオカミ」という言葉の前に、私たちの念頭にはイヌ科の動物を思い浮かべているはずです。
それでも、「オオカミ」という動物の概念がない文化圏にお住いのひとたちには、「オオカミ」も通用しませんし。
”Wolf.”と伝えても、はて?なんでしょう?って返されるんです。
「オオカミ」という動物の概念がない文化圏にお住いの人々は、いろんな国々の国語で用いられる「オオカミ」という字面や音声としての言葉を伝えたところで意味を介する場所までたどり着けないはずです。
映像を先にみせるでしょ?この動物ですって。

多分、なんだ?犬じゃないか。結構大きいな。という理解を取り付けるところまではたどり着けるのかもしれません。
そして、映像を先にみせたわたしは、すいません、これはハスキー犬です。犬ですって謝罪する羽目になるんです。地球上の大体のオオカミは絶滅していて、わたしたちはオオカミと犬とを視覚的に区別する手がかりを映像に求めることは困難ですって告白しないといけないんですよ。
わたしたちが、オオカミと聞いて、そこに連想させるオオカミの映像は、オオカミではない可能性のほうが高いんです。
「記号」だけでも、これだけめんどくさい現実を抱えているのに。
ドゥルーズはどうするつもりなんでしょうねっ。
ちょっとね、ふてくされています。