実は、テクスト至上主義です。文学研究なので当たり前ですが。
わたしなりの自説があるように見えるときもあるのかもしれませんが。自説というよりも、何かひっかかりがあるような気がすると思って調べていき、そうか、こういうひっかかりなんだという考えが大半なんです。
自説になるまで(?)時間がかかるんです。
最近の学究はまったくわからないんですが、むかしの学究の丁稚奉公では、まずテクストだったんです。
相手がどんなテクストであろうが素手で格闘しないといけなかったんです。

テクストとの素手での格闘ありきです。
例えば、テクスト読解の悪戦苦闘もなしに、自説にことよせるためにテクストを捻じ曲げるとか、適当な論文で自説を補強するとか論外なんです。
とあるテクストについて、とある研究者が説得力のある論を展開しているから、それを自分の論文の屋台骨にするというのは、御法度です。
論文の背骨は自分で作らないとダメなんです。
言葉の並びだったり、動詞のありようで悩むわけですから。なんでここでこの言葉の選択なんだろう?って毎回立ち止まるんです。しかも、そこで粘らないといけないわけなので。
出典だと出典元ののクオリティを確保するのは当たり前のことでした。
多分、それは今現在の研究でも何も変わっていないと思いますが。
新奇な読解とか許されないんですよ。

流行の読解とかやると、とんでもなく怒られます。
そういう教育を受けて幸いだったなとも思います。
なので、門外漢なりにドゥルーズをしかも翻訳で読むときにでも、まずは翻訳のドゥルーズの単著を読むんです。そうしなさいと指導されたからでもあるんですよ。
わたしの先生(複数形)は博覧強記でもおありなんですが。
この筋道で読むようにしなさいという指導が徹底していたので。
順序は間違えないんです。
その手前で、わたしがたくさんの失敗をして呆然と途方にくれている状態を、先生が(複数形です)本当に、なんて手がかかるんだろう、どれだけミスを繰り返すんだろうと、横目でみやりながら、苦心惨憺をものともせずに、育ててくださったからなんです。
本当にいちから十まで怒られてきたんです。

あいつにはこれくらい言わないとダメなんだっていう怒られ方もしています。
昔の学校なので。倫理観が今ほど厳しくなかったんですよ。
わたしが存じ上げない先輩方や、わたしが知らない後輩の皆さんはそんな散々な目にあったんだろうか?とも思います。
大体、そこまでされる謂れはないんですよ。