遠くの近くの。

テレというのは英語の接頭辞で(”tele-“)、遠い、遠距離のという意味があります。

例えば、もともとは、音や声、音を出す装置といった意味をもつ”-phone”と結びつくと「電話」になります。

目の前には存在しえない、離れた距離にいる誰かの声が、耳元で聞こえるんですよね。

話すと会話ができますし。

電信という技術になりますが。19世紀半ばには完成されています。

1851年にはドーバー海峡に海底電信ケーブルが施設されるんですよ。

遠くの存在を近くにという技術は歴史が古いんです。

電話の英語である”telephone”はライス式電話という初期の電話をつくったライスさんが名付けた造語だったんです。

電話の実用化が広がると、遠くに存在する、ここには存在しない存在との交信というアイディアが広がるんです。

テレプレゼンスというアイディアです。

私たちの間には奇妙な距離がひろがっているはずなのに、どうしてこんなにも身近に感じるのだろうという。

存在の欠落と、圧倒的な存在感が生み出す、不可思議な通信状態なんですよ。

遠隔の外科手術とか。

コロナ禍で一般的になったオンラインの授業とか。

そして、なぜか身近なのは、”communication”、文字を中心とした連絡手段になります。

ここにいないはずのひとが伝達する文字による通信文を読むという。

わたし個人は生成A.I.にまったく興味がないので。使うこともないのですが。

生成A.I.の言葉はどこからくるということになるんでしょうか?

何もない場所からやってくる、あなた専用の生成A.I.専用の自然言語の(自然言語というのはもはや、生成A.I.のための言語のような気もします)森から、投げかけられる言葉になるのでしょうか?

ひとの言葉に近づいていくようで、結果的には、ひとが読み込む言葉の主体性に、生成A.I.がついてこれない状況をつぶさに読解をすることで、案外とひとが主体的に疲れているのかもしれませんし。

意味を読み取ってるのは、生成A.I.のようで、意味を読み取らせる余地はひとが与えているはずで。

読み取らせる余地まで塩梅していることにもひとも気づかないので、余計に疲れるのかもしれませんよね。

理解の幅も、きっとひとほどの柔軟性は生成A.I.にはないのでしょうし。柔軟性があるはずだ、あると信じるのはひとの自由ですし。生成A.I.の主戦場は計算のみが必要な場所になるんでしょうし。戦場の最前線でひとが関与できない場所にもなるのかもしれません。情報化が先鋭化すればするほど、生成A.I.の独壇場になり、ひとが関与できない場所での犯罪行為にも波及するのかもしれません。

そのとき、法はどのように機能するのでしょうか?

ひとが生成A.I.規格にならない余地を探していくほうが大事になるのかもしれませんよね。

生成A.I.の現在地がわからないので、予測もつきませんが。

むつかしい問題ですよね。個人的には楽をしても得られるものは特段ないという現実を知っているので。本当に興味がないんです。そのうち、生成A.I.を日常的に使用しているグループと日常的に使用していないグループに分けられて、臨床実験とかもありそうですよね。生成A.I.を日常遣いしているほうが、認知機能の低下がみられるという結果になるんだとは思います。自律的に思考能力をつかっているかどうかというのは、どこかで差になってくるんだと思います。余暇があるんだったら、自主的に頭脳を使いたいほうなんですよ。

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