向き不向きもありますよね。

Social mediaに関しては。わたしは実は不得手なのかもしれません。

Social mediaに関しては個人的にはネガティヴな記憶のほうが少なくなかったりもするので。

生活のなかで必要なのかな?とまじめに考えると。

実際にそうでもなかったり。

現実の生活の中で活用のしようがない時も少なくないですしね。

使用しているsocial mediaのなかには感謝の気持ちをもっているものもありますが。

その閉じられた空間のなかで(だって、アプリケーションですし)、その場所の常識を考えて、発言する状況も考えて、工夫を重ねると、何を発信すればいいんだろうか?と逆に悩んだりもしますし。

一応の努力はしていますが。

生のままの情報が整理もされていないで、発露だけしている空間って得意ではないみたいです。

冷静に顧みられもしない即自的なポストを延々と読んでいても得られるものもさしてないというのは経験則としてもっています。

この”bare”な”rushness”を顧みない空間の無為さはなんだろうという経験は何度もしました。

さまざまな話題に嚙みついて、情報を丹念に自分のなかで咀嚼することもない空間の情報ってわたしにとっては、本当に無意味なんです。

使用方法に関しても、制限して平和志向です。

たまに興味をもつこともありますよ。

そして、どんな情報なんだろう?と思って探していき、熟読して、なんだんだろう?これはという時も実際にあるので。

まぁ、わたしの情報の探し方がまずいだけなんですが。

わたしの視野の偏狭さのなせる業ですが。

ひとつの像が視点によって多方向に増幅していったり、価値観が輻輳化していくという事象を文献を通して学んでいたりすると。

こんな一時的な視点につきあっても得るものはないと判断せざるを得ないんですね。

イギリス文学の研究で言及すると、いわゆるカルチュアル・スタディーズのような視点の取り方が、受けた教育の性質もあってとても不得手なんです。

こればかりは、本当に育ちです。

すべての著作を網羅的に読んでいるわけでは決してありませんが、批評家で基準とするならHerman Northrop Fryeでいいって思ってしますんですね。

Northrop Fryeを基準にして価値判断をしてもあながち間違いではないような気もするんですよ。

個人的な考え方ですが。

テクストはテクストで。映画がテクストになることはないですよ。別の表現形式ですし。

映画だったり、写真だったりをロラン・バルト以上の繊細な視点で冷徹に読み込む英文学の論者を知らないだけなのかもしれないんですが。

Social mediaのポストにそこまでの深みってありえないですし。

問いの措定ですら、安易なポストも多いんだなという印象が終始ぬぐえないので、用途に関しては本当に日本を無視しています。

向き不向きでいうと、もともと向いてないのかもしれません。

ボルヘスの短編とsocial mediaに使う時間で同じ時間だったらどちらを選ぶって効かれたら自明なんです。

しょうがないんですよ。育ちなんですよ。

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