最初は恥ずかしかったんです。

『現代思想』とか『ユリイカ』との出会いは先生の研究室だったんです(先生は複数形です)。

むつかしそうな雑誌なんだなという出会いでした。

先生に聞くと、発想の転換のためだったり、気分転換のために購入してらっしゃるとのことでした。

学校にいたりすると、だんだんと『現代思想』は『ユリイカ』を読まなければいけない羽目になぜか陥るんですね。

なんでなんだろう?って思うんですが。

気がつくと図書館で手にしていたり、するわけです。

実際に本屋さんとかで購入するとき、浮くんだろうなとか思ったりもしたんですが。

結局、本屋さんで買ったりするようになるんですよ、これが。

授業中に、先生(複数形です)、あれは〇〇で、××で、△△で(以下略)ということはなかったと思うんですが。

多分ないと思います(結局、先生のほうがわたしに詳しいんですよ。不思議なことですよね)。

むかしは手にした『現代思想』や『ユリイカ』でわくわくしたり、どきどきしたりしたものなんですよ。

なぜか。

〇〇先生が△▼先生を相手に、身も蓋もない対応をとっていらっしゃる、どうしよう。

△▼先生はもしかすると滋味のあるところを読者に見せたかったのかもしれないけれど、〇〇先生からすると、それが余計になる部分になるので、読む読者に対して説明の時間を省くためにそういう対応だったのかもしれない。

うーん、容赦がないなぁとか。

多分、対談の文字起こしの原稿を受け取ったうえで、双方の先生で手直しをする間もなく、対談の現場でこの会話だったんだろうな。

〇〇先生は関西圏だからしょうがないと思う。

関西でかっこつけしいって、意味不明な存在になるから。

それにしても怖い言論空間だ、とか。

当時はそんなことを思ったりしました。そのうち扱うテーマに興味を惹かれなくなり、たまに本屋さんで立ち読みをして中身をチェックすることすらなくなったんです。

幻滅の何週目かで懲りたんだと思います。

そういうときもあります。背表紙見ても手に取らなくなっています。しょうがないんですよ。誰が書いているのかもしらないですもの。調べてないので。

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