ドゥルーズに関しては気力体力がないなりに、読み進めてはいるんですよ。
進捗状況を整理しようかな?っと思うこともあるんですが。
どうしようかな?って思ったりもします。
きっと気のせいという幻想を抱えているからです。幻想なんですよ。
まぼろしなんです。
直観にとらわれているだけなんです。

わたしはフランス語ができないので、日本語で読むしかないんです。英語の研究文献もあるのかもしれませんが。おそらく玉石混淆なんだと思うんです。翻訳文化という点では日本はレベルが高いはずなので。
日本語で読んでいます。翻訳で読んでいます。
学生ならではのメモ書きのように、賢そうにさらさら~って書くことも実はできます。
学生が長かったので。実はおちゃのこさいさいです。
きっとほかの誰かががやることですし、わたしはその誰かではないので。平易に記述をするんですよ。急に賢そうな、文飾のある文体になっても、変ですしね。これ以上平易にできないって諦めることもあるんですが。
フランス現代思想の勉強を頑張る学生のみなさんに、見つかったりしないんだろうかってまぼろしを見たりもします。
考えすぎなんですけれどね。

何度でもいいますが、誤読をすると本当にこっぴどく怒られる環境下だったので。
それほど見当違いの読みというのはしないんです。
ドゥルーズの翻訳を読みながら、なんでこんな手続きで書くの?変じゃないの?なんで?ほら、また、注釈のつけ方さぼってない?だから、翻訳を担当なさった先生方の訳注がより細かくなるんじゃないの?なんで注が雑なの?ヒュームの註解のほうがしっかりしてるってどういうことやの?
時空がねじ曲がって、ドゥルーズに出会うことがあったら、どういうことなんですかってまくしたてるんやろうな。
腹立つわっ。
という隘路を進んでいるので。
わりときっちりと読んでいます。ドゥルーズは大学の教員でもあったので、先生ならではの記述もあるんです。
例えば、スピノザについて書いていますが。「『エチカ』の主要概念集」という文章を書いているんです。
註がないのです。
『エチカ』、『往復書簡集』、『知性改善論』、『神学・政治論』、『国家論』(岩波文庫でだいたい入手可能です)を読んでおきなさい。大事な部分については、わたしのほうでわかりやすくまとめておくから。参照しなさいね、ということなんだと思うんですが。
どうしてこれとこれなんだろう?とか。テストに出したんだろうか?とか。
「スピノザが、知るためには知っているということを知る必要はない(TR 35)が、知っているということを知らずにしることはできない(EⅡ21並びに43)というのもそのためである」
意識という概念が取り上げられるときに、それは観念の所与である特質を指す。観念の存在のありかたの特徴としては思惟属性のなかから顔を出すというのがあり、観念自体が観念上の形相と(または実在)として、織り込み済みとして表層される別の概念(単に対となるわけではない)の対象にもなるので、無限に分化していき、そのまま2重化する特質を併せ持っているとドゥルーズは説明をするんです。
そして、意識の在り方の特徴としては3つあるという部分の説明のために上記のスピノザによる指摘を挙げるんですが。どうして、スピノザのこの指摘を大事にしようとするんだろう?とか。
「とはいえ、観念と、観念の観念 [意識] とのあいだには、たんなる思考上の区別しかないとスピノザが述べていることも事実である(EⅣ 8 証明、V 3 証明)。」
どっちやねんという。こういう部分にドゥルーズの独自読解は隠されているんだと思うんです。
スピノザの時代に意識は無意識の海でおぼれそうになっていたのでしょうか?スピノザは17世紀のオランダに住んでいたんですよ。
どうするんでしょうね。

それでも、えーとですね。という議論から逃げないようにしてドゥルーズの癖を読み解いていくしかないんだろうなって思います。
わたしは諾々としかテクストを読まないので、わたしが思いつきそうなことや、わたしがむかっ腹を立てる部分に関しては、たぶん、ドゥルーズの専門の先生方のほうが詳しいんだと思うんですよ。
お前は細かく読んでるやないかいって感想をもたれるだけなんですよ、きっと。
そういう教育だったので。
しょうがないんです。
学生のみなさんで、ここをみつけたみなさんは、ある程度目をつぶっていただくか、もしくは、きちんとテクストを読みこむようにしてくださいね。
どっちみち誤読の提示はしていません。ただ、隘路は隘路です。専門の皆さんはそれぞれで頑張ってください。
精読から逃げると、ドゥルーズに後ろから突き飛ばされるだけなんだと思います。そんな暴力的なひとでは実際にはないんだと思うんですが。書かれたものを読み込んでいると、いざとなると突き飛ばしにかかるような手続きの性質はあるんだろうなって思いますよ。
突き飛ばされないように。
わたしが提示する読みを誤読だと考えるドゥルーズの専門の先生がいたとしたら(実際、皆無だと思います)、その先生がテクストを誤読していることになると思います。英文学同様に、どの人文科学も狭い世界になるので、しかも、フランス現代哲学でしょ?そんな先生がいたら、きっと吊るし上げなんじゃないのかな?って思いますよ。多分。学生のみなさんは精読上等の先生につかないと道を踏み外すので、きちんとした先生について頑張ってくださいね。読んでいても思うんですが、上っ面で読解しているとドゥルーズの読解はたぶん失敗します。英文学なんて単語レベルの読解になるんですからね。どうしてこの形容詞が、どうしてこの名詞が選ばれたんだろう?という段階で悩むんですよ。そこに読解の余地があるからです。フランス語の文体はまったくわかりませんが、ドゥルーズの癖があるんだと思います。原文で読むことができるって羨ましいです。隘路なんだと思いますが。楽しむ(?)こころを忘れないようにしましょう。後、変な薄っぺらい海外の論考にだまされないようにしてくださいね。海外の最新の研究動向を反映させた、というのでは、あなたがきちんとテクストを読み込む余地を薄い内容の海外の論考に白紙委譲しているという姿勢をしめしているだけになるんです。冷静に考えてみて下さい。研究する主体としての自我がゼロ以下ということですよ。それでは、つまらないでしょ?文学も哲学も読み手の主体性にかかっているところがあるんだと思います。テクストにのめりこみすぎず、きちんと食べて、睡眠をとって、気晴らしを忘れないように。わたしには単なる気晴らしがドゥルーズの精読なんですが。翻訳なんで気が楽です。