こどもの頃に、学校の体育でマラソンの真似事のような授業もあったんです。
42.195kmを小学生に走れというのは土台無理なので。
数キロ走るんです。
走るルートはあらかじめ説明があるんですが。走り慣れてないと途中で走ること自体に挫折していくんですよ。

子供たちを見守る先生が視野から消えると、走るスピードを落として、サボるためにはどうしたら?と友達と意見交換をしたりしだすんです。
近道はなかったっけ?とか。
え?ないの?なんで?とか。
サボれないことがわかると、なんでこんなことをしなあかんねんという不満と愚痴も次々と出てきます。
授業でマラソンの練習はやったけれど、本番でこんなに長い距離を走るなんて思うわけないやんかっという。
やってられへんよなという言葉が口をつく手前で、次のコースを見守っている先生が視野にはいって。
群れている全員で、スピードを急に上げて走り切ったりもします。
そのうち、歩くことを選択する友達も出てきますし。
とにかくマラソンを早く終わらせるために走ることにまい進することを選択する友達も出てきます。
子供って早いうちからみんな選び取る選択肢はバラバラなんだなって学ぶのかもしれませんよね。

それぞれで選んだペースで、ゴールである、そして、スタート地点でもある学校の運動場にたどり着き。
それぞれの待機場所に座るんですが。
走りきることを選択した友達は、待つ時間に飽きていたり。
走ったら終わりって思うやんか、待たなあかんねんな、忘れててん。ずっと膝小僧抱えて座ってるだけやねん、つらい。
待っててもなかなか運動場に現れない友達を心配し始めたころに、先生と一緒に走って登場した友達が半泣きになっていて、どうしようと心配したり。
途中でこけてしまって泣いてたら、先生が一緒に走ってくれてん。
開始地点である、運動場に帰ってくる頃には、友達がいろんな経験をしていて。
ゴール地点であるスタート地点では、開始時点とは、違う感情がいろんなところで巻き上がっていて。
不思議だなって。
思ったんですよ。
ひとはなんでどうでもいいことばかりを覚えているんでしょうね。