“Mob”という蔑称。

Footballの歴史は古く、スポーツの近代化に寄与したイングランドのそれは実際に古いのです。

近代footballの組織化はイングランドでおこなわれました。学校のいわゆる体育の授業のためにルール化されたんです。

わたしは研究書を読んだことがあります。

Footballの歴史を概観する研究分野においては、中世まで遡るという研究内容(?)もなかにはあるらしく、どう考えてもそれは現代footballではないという様相を呈するという。

中世のfootballってある意味お祭りみたいになるので、暴力と不可分になる局面もあり。いまにも受け継がれる部分と言えなくはないんです。マリーシアなども現代footbalでは大事な要素ですから。

いにしえのfootballはとにかくボールを追っかける祭りの暴徒になるそうです。いくつか調べたんですが、「暴徒」という表現が散見され。

多分、日本のお祭りと似た感じになるのかもしれません。山車を牽いたり、まわしたりして血気盛んになるお祭りは日本ではよく見られる風景ですし。

細かいルールはありそうなんですが。全国的な統一ルールはむつかしくても、地域地域でルールの整備は古くからありそうですよね。無論、解釈の余地もあるんでしょうが。中世におけるfootballはお祭りのようなスポーツですし。お祭りだからこそのルールなのかもしれません。

読んだ研究書にはおそらく20世紀初頭の写真が掲載されており。どこまでも続く平原を目前に転がるボールひとつを目指して、それを全力で追いかけるとんでもない人数の農民を映した写真で。

中世の暴力がどうだったのかはわかりませんが。暴力性というよりも競争心がたちのぼるという印象の写真でした。

近代化していく歴史のさなかにあって。イングランドでは都市や周辺地域で区画整備が進むと、ボールひとつに群がって暴徒化することが実質むつかしくなるので。事態が収束していく歴史のあとの写真ゆえにそういう印象になるのかもしれません。写真をみた当時は中世の暴力的なfootballには無知でしたが、写真には歴史が刻まれてしまう側面があるのかもしれず。

ボールひとつに向かって暴徒化し、暴力が振るわれてもボールのためなら構わないというfootballのありように大打撃を加えたのは、実は、道路交通法という説があるんだそうです。1835年の法律です(現在では殆どの法律が残っていません。当時は馬車ですが、現代では自動車なので)。高速道路の整備があるんです。もちろん、馬が馬車をひいていたので限界はあります。それでも馬車が運んでいたのは単に人だけではなく、郵便事業の発達もあるので、郵便物も運んでいたのです。

この点は現在にも通じますが、郵便物ということは遅延なく届くことを目的にするので、高速道路って必要なんです。交通網もあります。

そして、高速道路を横断する歩行者をはねたりしてはいけないので、馬車で高速道路を走る運転者(御者)には交通違反が課されたりもするんです。

高速道路の潤滑な運営のために(教区ごとの区画の反映もありますし、教区が絡むのでイングランドではそのまま裁判所まで絡み、民事裁判制度が直接的に介在をするんです。ちいさな教区の集まりがその地域での規律を成立させるので、巡回裁判まであります)、禁止されたものがあるんです。

公共の高速道路上で、footballをやってはいけませんという交通違反が徹底されるんです。

“Mob”の蔑称をもったむかしのfootballにとってはかなりの大打撃だったという説もあります。

また、むかしからある蔑称なだけにいろんな意味にも使われたりもします。イングランドだと名誉革命時のラテン語であるmobile vulgusまでさかのぼったりもするそうです。「移り気な大衆」です。大衆を味方につけないと治世が収まらないという時代性が名誉革命につながったというのは歴史の視点としてあるのは確かです。

一方で”mob rule”という言葉は、”ochlocracy”の意味になるんです。

日本語でいうと「衆愚政治」です。衆愚政治のことをきちんと調べると文献量が大変なことになるという、実はむつかしいアイディアでもあります。

Wikipediaを参照しましょう。

社会的判断力が不十分な多くの市民が意思決定に参加することで議論が停滞したり、扇動者の詭弁に誘導されて意思形成を行い、合理的ではない政策執行に至る場合がある。また知的訓練を受けた僭主による利益誘導や、地縁・血縁からくる心理的な同調、刹那的で深い考えに基づかない怒りや恐怖、嫉妬、見せかけの正しさや大義、あるいは利己的な欲求などさまざまな誘引に導かれ意思決定を行うことで、コミュニティ全体が不利益を被る政治状況を指す。また場の空気を忖度することで構成員の誰もが望んでいないことや、誰もが不可能だと考えていることに合意することがある。

どのような側面でも”mob”の闇に落ちることなく、きちんと自分のなかで考えをまとめるという姿勢も大事なら、扇動に対して微妙な距離感を保つという冷静さも必要なのかもしれませんよね。

私たちは大衆を形成する側面もあるので。

”Mob”にならないように自制が必要な局面もあるんだと思います。「衆愚」という言葉が現代でも通用してしまう余地はあるのかもしれませんし。

衆愚は嫌ですよね。

気を付けましょう。お互いに。

ちゃんとよく考えるという姿勢が大事なのかもしれません。雰囲気に流されず、しっかりと悩んで考えるという姿勢なんだと思います。何度も悩んで、出した結果が”No”だったら、それは”No”なんだと思います。

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