映像論のような講義は受講したことがなく、映画は観客として楽しむために観ることがほとんどなんです。
映画がさまざまな技術から成立しているというのは理解しているんですが。
その内実は案外知らないんです。
映像を観るときに使うのは思考と感受性になります。
技法に詳しくなると、映画を観るのが楽しくなるのか、つまらなくなるのか判断がつかないので。
専門の文献も特に持ち合わせがありません。

映像の技術にモンタージュってあるんです。
タルコフスキーによると「分割の手法、モンタージュは、時間の流れを破壊し、時間を断ち切り、同時に時間の新しい質を想像する。時間を歪曲することが、時間をリズミカルに表現する手段になっているのだ」そうです。
タルコフスキーはソ連の映画監督です。
実際にいろんな国の映画を観ていて、その映像作家のモンタージュというものをきちんと把握しているんです。タルコフスキーがあげるのは、イングマール・ベイルマン、ロベール・ブレッソン、フェデリコ・フェリーニ、黒澤明、ミケランジェロ・アントニオーニという顔ぶれで、これらの映像作家が用いる特性のあるモンタージュを取り違えることはないとため息交じりに言明しています。
モンタージュは編集時の映像の技法になります。ショットを積み重ねではなく、ショットに短い別の場面を挟むことによって、また、AというショットとBというショットを時系列の上で張り合わせながら場面の緊張感を生み出したり、解釈の幅やダイナミズムを生む技法ではあるんです。
タルコフスキーは、自作の『鏡』に触れながら、自作のおいてはモンタージュの技法を重視していないと言明するんです。
重要視しているのはショットが生み出す映画のリズムになります。
「映画のリズム(翻訳ではリズムに傍点が振られています)は、ショットのなかを流れる時間の特質とのかかわりのなかから生まれてくる。つまり、リズムはモンタージュされた断片の長さではなく、その断片のなかを流れる時間の強度によって決定される」
ショットの連続によってつくられるフィルム上の時間の流れがあり(『鏡』はショット数が短く、つまり、ワン・ショットが長く設定されているそうです)、ショットのなかで流れている時間の特性が、生起するリズムを決定づけるのであり、モンタージュの技法が作り出す時間の断絶による効果ではありえないそうで。
モンタージュの技法というのは、観客に知的操作上の理解を求め、映像の技法上の回答の上に、観客の視点を回収してしまうので、観客が映像を観ながら自らの感覚を映像上に押し広げていくという解釈の可能性を奪取することと等価になっていると指摘をしています。
つまり、映像を観ながら観客が自分の内的な時間の流れを、目の前のショットが構成する時間の流れの上に再構成する自由がないということになります。タルコフスキーが念頭に置いているのはエイゼンシュタインの映画になりますが。謎解きと回答が映像のなかにあり、観客はそこに縛られてしまい、どこにも行けず八方塞がりになるということなんだと思います。
映画自体にはショットが作る時間の流れがあるのであって、モンタージュの技法自体はそこに別の圧縮化された断片を繋ぎ合わせることで、別の視点や意味を付与するわけではないとタルコフスキーは述べるんです。
「モンタージュは異なる密度の時間を内包する大小の断片を繋ぐことなのである。そしてそれらの結合だけが時間の流れの新しい感覚を与える。その感覚は、ショットを短縮した結果生まれたのだか、そのショットは接合の際、切り詰められるというわけだ」
ひとつの、あるいは複数の時間の流れを紡ぐショットに接合されるモンタージュの断片というのは、その時間に関して等価とは言えず、ショット内のリズムの乱れをもたらすが、そのリズムの乱れ自体、ショットが紡ぐ時間の効果として事前に配置されているのであれば、その圧縮された結合というのは、ユニークな効果をもたらすこともあるという視点は持ちながら、それは映像作家が観客に強制をする時間間隔という立ち現れ方をするという指摘を怠りません。
エイゼンシュタインの教科書的な『アレクサンドル・ネフスキー』の戦闘シーンにおいては、「エイゼンシュタインの個々のショットのなかに時間の真実がない」ために、エイゼンシュタイン自身が狙っていたモンタージュの技法の効果自体は実際には観客に伝わらなかったと突き放しています。
エイゼンシュタイン自身が映像世界のなかで律するべき、または自身がフィルムの上に刻んでいるはずの内的感覚から生み出される時間の感覚を、映像技法によって、故意に操作することで台無しにしてしまい、観客に要請する「有機的で正しい形」で生起するはずの時間のリズムというものを損ない、観客の意識を映画からそらしてしまうのだと。
フィルム上の上に記録された時間の流れというのは、元来、映像作家が想定しているよりも大きな流れで観客にしみわたっていき、離れていき、観客それぞれのなかで呼吸をしだす、その機会を奪うのだと。
ショットに生成するリズムというのは、ショット内で生起する時間の圧縮によって生み出されるので、技法によるわけでは全くなく。
タルコフスキー自身、『鏡』に用いたモンタージュの技法については、手を焼いたと述べています。
教科書的な意味でモンタージュの技法を理解して、技法に関して疑念を持たずに、その観点をさまざまな映像に押し広げてしまうと、単なる解釈の罠に陥っていまい、映像が持つべき時間間隔を誤認してしまうのかもしれません。
映画を構成する上での工夫がたくさんあり、それは技法として定立しているので暗記して肯定していきましょうでは、映像は正しく観ることができないみたいです。確かに映画は教科書ではないですからね。